唐沢山城(からさわやま)
 別称  : 根小屋城、栃本城、牛ヶ城
 分類  : 山城
 築城者: 佐野盛綱か
 遺構  : 石垣、曲輪、土塁、堀、虎口、土橋、井戸
 交通  : 東武佐野線田沼駅よりバス
       「栃本小学校西」下車徒歩20分


       <沿革>
           下野国押領使として関東に下向した藤原秀郷(俵藤太)によって、延長五年(927)ないし
          天慶五年(942)に築かれたと伝えられる。秀郷子孫の成行が足利荘に移って藤姓足利氏
          を称すると、唐沢山城は一旦廃されたとされる。治承四年(1180)、成行の孫とされる成俊
          は、佐野に移り住んで佐野氏を名乗り、唐沢山城を再興したとされる。しかし、ここまでの
          経緯はすべて伝承にとどまっており、史料や考古学的見地からの裏付けはない。
           延徳三年(1491)に佐野盛綱が唐沢山城を修築したとするのが、史料上の初出とされる。
          すなわち、遅くとも15世紀の末ごろまでに築かれていたことになる。盛綱は、佐野氏が自立
          勢力となる端緒を開いた人物とされている。
           盛綱の4代子孫昌綱のときに、唐沢山城の名を天下に轟かせた、十度にわたる上杉謙信
          との籠城戦を経験することになる。永禄三年(1560)、まだ長尾景虎と名乗っていた謙信が
          関東管領上杉憲政を奉じて関東へ越山すると、昌綱も他の関東諸将と同じく上杉氏の幕下
          に参じた。『関八州古戦録』によれば、このとき北条氏政率いる約3万もの大軍が唐沢山城
          を攻めたが、謙信の救援もあり撃退したとされる。だが、当時北条氏が下野まで派兵できる
          状況にあったかは疑問であり、実際には行われていない可能性が指摘されている。
           翌永禄四年(1561)、小田原城攻略を諦めた謙信(このときの名乗りは上杉政虎)が越後
          へ撤退すると、昌綱はやはり多くの関東諸将と同様に北条氏に転じた。同年十一月に再び
          越山した謙信は唐沢山城に向かったが、冬季ということもあって攻めきれずに退いた。
           翌永禄五年(1562)三月、厩橋城で年を越した謙信(当時の名乗りは輝虎)は唐沢山へ
          攻め寄せたが、やはり落とすことができなかった。翌六年(1563)二月、雪の三国峠を越え
          て出陣した謙信は、武州松山城救援という第一の目的は果たせなかったが、唐沢山城を
          含む下野・下総・武蔵の多くの城を開城させた。しかし、謙信が帰国すると昌綱は再度離反
          した。
           翌七年(1564)二月の上杉軍による攻撃は、唐沢山城が経験した最大の激戦とされる。
          昌綱ら籠城方はよくしのいだが、北条氏は安房里見氏と対峙していたために援軍を送ること
          ができず、本丸を残すのみとなったところで佐竹義昭と宇都宮広綱の仲介を受け降伏した。
          同年八月に謙信が川中島で武田信玄と対峙すると、北条氏康は北関東へ出兵し、昌綱は
          またも上杉から北条へ寝返った。同年十月に謙信が軍勢を率いて唐沢山に迫ると、昌綱は
          臣従して人質を差し出した。
           永禄九年(1566)に多くの関東諸大名とともに昌綱が北条氏へなびくと、謙信は翌十年
          (1567)二月に唐沢山城を攻めたが、冬の厳しさを前に撤退した。翌三月に改めて謙信が
          兵を送ると、今度は敵せず城を開いた。
           永禄十二年(1569)、北条氏と上杉氏の間で越相同盟が成立したが、締結当初から両家
          間で行き違いが多発した。そのような中、翌元亀元年(1570)一月には謙信が昌綱を従わ
          せるために唐沢山城へ進軍した。さすがに真冬の攻城は成功せず、さらに翌二年(1571)
          には早くも越相同盟が終わりを迎えた。
           天正二年(1574)に昌綱が死去すると、跡を継いだ子の宗綱ははじめ北条氏に属したが、
          後に佐竹氏と結んで独立を図った。同九年(1581)、唐沢山城は北条氏照の攻撃を受けた
          が、佐竹氏の援軍もあり撃退に成功した。
           天正十三年(1585)、宗綱は足利長尾顕長を討たんと出陣したところ、須花坂で討ち死に
          した。宗綱には男子がなく、お家存続のために養子を迎えることになったが、北条派と佐竹
          派で佐野家中は分裂した。翌十四年(1586)八月、北条氏が唐沢山城を占拠し、北条氏康
          の六男氏忠(氏康の弟氏尭の子とも)が宗綱の婿養子となって佐野氏を継いだ。氏忠自身
          は唐沢山には赴かず、北条派の佐野家臣大貫越中守が城代を務めたともいわれる。
           天正十八年(1590)に小田原の役が起きると、氏忠は小田原城に籠城した。北関東には
          前田利家・上杉景勝らが碓氷峠から進軍したが、そこには氏忠の相続に反発して出奔して
          いた昌綱の弟房綱(天徳寺了伯/宝衍)と旧佐野家臣山上道及も同行していた。唐沢山城
          は四月二十八日に開城したとされるが、どの程度の戦闘があったのかは定かでない。
           役後、佐野領3万9千石と佐野宗家の家督が房綱に与えられた。房綱は安濃津城主富田
          一白の五男を養子に迎え、政綱と名乗らせた。政綱は文禄元年(1592)に房綱から家督を
          譲られ、後に信種ついで信吉と改名した。
           信吉は関ヶ原の戦いで東軍に属し所領を安堵されたが、慶長七年(1602)に麓の春日岡
          に佐野城を築いて移ることとなった。これは、あるとき江戸で火事があった際、いち早く変事
          に気付いた信吉が駆けつけたところ、逆に江戸を見下ろせる山上に居城を置くとは不敬で
          あると咎められたためとする逸話が伝えられる。また『蓼沼家文書』には、江戸二十里四方
          に山城御法度が布かれたためとする説が載せられている。
           慶長十二年(1607)には、まだ建設途中であった佐野城に信吉が移っている。これにより
          唐沢山城は廃城となり、その激動の歴史に幕が下ろされることになった。

          
       <手記>
           中世城郭ファンに関東の名城を10か所挙げろといえば、おそらく多くの回答に唐沢山城が
          含まれるのではないでしょうか。あの上杉謙信の攻撃を何度もしのぎ、また関東では珍しい
          高石垣の城として、広く人口に膾炙しています。
           とはいえ実際に訪れてみて、必ずしもそこまで険しい山という感じではありません。十数回
          に及ぶ上杉氏や北条氏との戦いでも、実際には半分くらいは降伏を余儀なくされています。
          それでもこれだけ争奪戦の的になったのは、上杉・北条双方にとって北関東での主導権を
          握る重要な場所にあったからで、その点でも名城と呼ぶに相応しいといえます。
           そんな堅城の呼び声高い唐沢山城ですが、主城域のすぐ手前に駐車場があるので、車が
          あれば今日では誰でも簡単に訪ねられます。今回は、城オタク女子として活躍しておられる、
          いなもとかおりさんに案内していただきましたm(_ _)m
           駐車場の先はすぐ大手口で、右手に天狗岩、左手に避来矢山(ひらいしやま)があります。
          天狗岩には登ることができ、眺望もすばらしいですが、いかんせん足を滑らせないよう注意が
          必要です。
           大手口を抜けると大炊の井戸があり、復元ということですが今も満々と水を湛えています。
          山上でこれだけの水を確保できるというのも、間違いなく名城の条件でしょう。大炊の井戸の
          先には四ツ目の堀切という長大な空堀があり、本丸・二の丸・三の丸と階段状に並ぶメイン
          の峰になります。本丸は唐沢山神社の境内となっていて、周囲は高々とした石垣に囲まれ
          ています。
           四ツ目堀切から本丸方面へ上がらずにスライドすると、南城というやはり石垣で固められた
          曲輪に出ます。ここには南城館という建物があり曲輪内の見通しは利きませんが、逆に本丸
          からは見えない関東平野の眺望が開けています。晴れていればスカイツリーや都心の高層
          ビル群が望め、江戸の火事を察知して駆けつけられたというのもあながち嘘ではないのかな
          と実感させられます。
           南城の下から尾根を南に向かって降りていくと、2条ほどの堀切を越えた先に突如鉤の手
          状の豪壮な堀が現れます。規模も大きくシステマティックなこの空堀は、おそらく北条氏忠の
          入嗣後に設けられたのでしょう。さらにその先には、木が伐採されて見やすくなっている堀と
          土塁があります。なぜここだけ樹木が整理されているのかと訝っていたのですが、後で地図
          を見たところちょうど北関東自動車道のトンネル真上にあたるようで、遺構のためというより
          工事等にともなうものなのかなと感じます。
           南城に戻ってさらにスライドして東側の尾根に向かうと、こちらには金の丸・杉の丸・北城と
          いう、堀切で分けられた3つの曲輪が連なっています。何かの施設になっているようで曲輪
          内部には入れず、また脇のスライド道を進むと二重堀切跡という鞍部で二又に分かれ、登り
          の道を選んだ先にキャンプ場として整備された鳩の峰というピークに出ます。野外劇場まで
          建てられているキャンプ場の敷地内には城跡感はほとんどありませんが、その北端付近は
          城の削平地の雰囲気が残っています。出曲輪状になった北端部の下には堀切があり、そこ
          へ降りて振り返ると、本丸周辺に比べてかなり古い感じの石垣が残っています。その先に
          もう1つ堀切があり、この辺が主城域の北東端にあたると思われます。尾根を引き返して、
          今度は本丸の北側をスライドして四ツ目堀切へ戻れば、効率よく主城域を一周できます。
          余裕があれば、駐車場と県道の分岐点から北西に伸びる「土矢倉」の細尾根に分け入ると、
          を進むと、こちらにも古い石積みが点在しています。
           以上に巡った主城域でも、独立期の佐野氏の動員力では、ちょっと守るには広すぎるよう
          に感じます。個人的な直観では、宗綱以前の唐沢山城は、南城・北城・天狗岩・土矢倉で
          囲まれる範囲に収まっていたのではないかと思います。
           さて、唐沢山城というと石垣の城というイメージですが、現在に見る高石垣が築かれたの
          は、佐野信吉の代になってからという見方が有力です。本丸周囲や南城の石垣には隅石
          や反りなど畿内の積み方の特徴がみられ、近江出身で秀吉の間近に仕えた富田一白の
          子である信吉が、中央の石工集団を招いて築かせたとするのは妥当な推測といえます。
           他方で、鳩の峰や土矢倉に断片的に残る石積みは、レンガのように低く平積みしただけ
          のシンプルなもので、本丸周辺の石垣に比べて技術的にはかなり劣っています。佐野市内
          には小野城のように、信吉のころまでは存続していなかったと思われるにもかかわらず、
          石積み遺構を残す城があります。下野に近い新田金山城も石垣を多用した城として知られ、
          信吉以前の唐沢山城にも、石垣が用いられていた可能性は高いといえるでしょう。
           とはいえ、現在の高石垣は明らかに穴太積みの流れを汲んでいます。信吉がこれほどの
          立派な唐沢山城を捨てて佐野城へ移らざるを得なかったのは、当時の江戸城にもあったか
          疑わしい畿内の最先端技術で築かれた石垣をもつ城が、関東平野を睥睨する位置にある
          のが煩わしかったというのも一因としてあるように思います。

           
 本丸石垣。
同上。 
 二の丸から本丸の唐沢山神社境内を仰ぐ。
南城の石垣。 
 南城からの眺望。
江戸方面をアップで。 
スカイツリーが見えます。 
 南城南方尾根の堀切その1。
その2。 
 その先の鉤の手状空堀。
さらにその先の曲輪。 
 南城下に戻って車井戸。
南城から東尾根へ向かう途中の本丸裏手石垣。 
 金の丸と杉曲輪の間の堀切。
キャンプ場のある鳩の峰北側の曲輪。 
 同曲輪の出郭。
同曲輪下の石積み。 
 石積み下の堀切。
その先にもう1条ある堀切。 
 主郭群西の四ツ目堀切。
堀切上の帯曲輪。 
 大炊の井戸。
天狗岩のようす。 
 天狗岩から西方を望む。
天狗岩下の鏡岩。 
 土矢倉の石積み。
同上。 
 同上。


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