石田城(いしだ)
 別称  : 小十九間城
 分類  : 平山城
 築城者: 細川弘氏
 遺構  : なし
 交通  : 琴電長尾線長尾駅またはJR高徳線讃岐津田駅
      からバスに乗り、「布勢」下車徒歩5分


       <沿革>
           『日本城郭大系』に、「天正期の城主は安富民部元網で」とあるが、これは細川勝元
          の側近として仕えた安富民部丞元綱の誤りと思われる。元綱は応仁元年(1467)の
          応仁の乱に際し、相国寺の戦いで東軍が総崩れとなるなか奮戦し、弟の盛継とともに
          壮絶な討ち死にを遂げた。元綱が石田城主であったとすると、城は応仁元年より前に
          築かれていたことになる。
           また『大系』によれば、寒川町石田の真田家が所蔵する『金心正義録』に、石田城主
          細川則弘が長宗我部元親の襲来に備えて兵を募り、防備を固めた旨が記されている
          とされる。則弘は、近隣の国弘城主細川国弘の父矩弘と同一人物とみられる。ただし、
          この真田家とは、真田信繁(幸村)が大坂の陣で戦死せず、国弘に匿われてもうけた
          と『全讃史』に伝承が載せられている真田(石田)之親の後裔を称する家と思われる。
          すなわち、真田信繁生存説が前提となっており、『金心正義録』の内容をそのまま受け
          入れることには疑念が残る。


       <手記>
           石田城は栴檀川沿いの舌状台地先端に位置し、主郭は光明寺境内となっていて、
          その南辺と東辺に土塁が残っています。境内南側には空堀もあったようですが、介護
          施設の建設により失われてしまったようです。
           また、北側先端部には二の郭があり、こちらは主郭との間の堀切が残っています。
          堀底は用水路になっているものの、西からは田んぼの畔を渡って、東からは集会所の
          裏を伝ってアクセスが可能です。
           南西には石田神社が鎮座し、その背後の社叢には古墳群がありますが、石田城との
          直接の関連はなさそうです。ただ、別名の「小十九間(おそくま)城」とは、神社の別称
          「雄装熊(おそくま)八幡」に由来しているそうです。
           さて、石田城主として名が挙がっている細川則弘ですが、私見としては上述のとおり
          その実在に疑問を持っています。この付近は寒川氏と安富氏が長年にわたり抗争を
          繰り返してきた地域で、そのような場所で8代にもわたり(国弘城の項を参照ください)
          独立性を保っていられたとは、考えにくいように思うのです。石田神社は、永正五年
          (1508)に寒川元家によって再築されたといわれていることから、応仁の乱ごろまでは
          安富氏が石田城主を務め、次いで寒川氏の手に移ったとみるのが、自然ではないで
          しょうか。

           
 東から石田城跡を望む。
主郭の光明寺山門。 
 境内南辺の土塁。
同上。 
 同じく東辺の土塁。
西から二の郭を望む。 
 主郭と二の郭の間の堀切。
おまけ:石田古墳群 


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