大井城(おおい)
 別称  : 城屋敷
 分類  : 平城
 築城者: 富田光輝
 遺構  : なし
 交通  : JR高徳線神前駅徒歩20分


       <沿革>
           『大川町史』によれば、富田左近光輝によって築かれたとされる、富田氏は左近太夫
          光長の代に讃岐に移り、安富氏に仕えたとされる。その子兵左衛門が安富氏と寒川氏
          の抗争の際に武功を挙げ、「寒川郡西村のうち 南は大道より北は天神山 西は遊原
          より東は横山まで」を与えられたとされる。恣意的に解釈するなら、西村とは富田西村
          を、北の天神山とは今日の船井天満宮を指すとも考えられるが、詳しい範囲について
          は判然としない。また、兵左衛門が所領を得たのは安富氏と寒川氏が戦火を交えた16
          世紀前半のことと思われるが、兵左衛門と光輝の関係も明らかでない。
           富田氏からは津田氏が分家し、近年まで大井城跡に屋敷があったとされる。しかし、
          津田氏が大井城主であったのか、もしそうだったとすれば富田氏はどうしたのかなど、
          同氏の動向には不明な点が多い。また、三木郡の串田城跡には、富田氏の27代子孫
          が昭和に建てたとされる「左近光輝後裔屋敷跡」の碑がある。素直に読めば光輝本人
          ではなくその後裔の屋敷があった場所と思われるが、その経緯も定かでない。

       <手記>
           大井城は、津田川沿いの緩やかな丘陵地にあったとされています。屋敷はだいぶ前
          になくなり、跡地は水田になったということですが、その外周は『大川町史』所収の要図
          とほぼピッタリ一致しているようです。すなわち上の地図に示したような形となり、北側
          が中心となる城屋敷、南側が家老屋敷と呼ばれていたようです。また北西から眺める
          と、城が大井神社の丘から続く裾野の角地に立地していることが分かります。
           一方でなんとも腑に落ちないのが富田氏の来歴です。阿波から来たということですが、
          城の南東には旧寒川郡富田郷があり、ここが本貫地と考えるのが自然と思われます。
          また、分家の津田氏が大井城跡に居住した理由や、串田氏の居城である串田城跡の
          脇に富田氏の屋敷が建てられた経緯など、どうにも未消化感が残ります。

           
 北西から大井城跡を望む。
 (中央の土壇上)
大井城跡現況。 


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