乙井城(おとい)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 四宮光利
 遺構  : 削平地か
 交通  : JR高徳線造田駅徒歩25分


       <沿革>
           天正年間(1573〜92)に、四宮太郎左衛門光利によって築かれたとされる。四宮氏は
          東讃の名族寒川氏に仕えて引田城主を務めていたが、光利の兄光武の代に、三好氏
          の圧迫に屈して引田を含む大内郡4郷を割譲した。
           光利は、天正十三年(1585)の豊臣秀吉による四国平定後に讃岐国主となった仙石
          秀久に仕えて武功を挙げ、乙井城を築いたと伝わる。秀久は翌天正十四年(1586)に
          戸次川の戦いで大敗して改易されたが、光利と乙井城のその後は詳らかでない。


       <手記>
           諏訪神社の鎮座する、鴨部川沿いの独立丘が乙井城跡とされています。神社の参道
          は北東麓から延びていますが、北西麓からも道が通じています。丘自体かなりなだらか
          で、諏訪神社の規模も小さくないことから平場はあちらこちらに見られるものの、城館の
          遺構かどうかははっきり分かりません。本殿の背後には諏訪山古墳があり、裏手に回る
          と石室が露わになっています。とはいえ、こちらも櫓台などに使われた形跡は認められ
          ません。
           周囲の斜面を歩いてみると、湧水を溜めた跡か何かのような人工の堰き止め地形が
          いくつかみられます。堰き止めている土堤には開口部もあるのですが、いつごろ何の
          目的で造られたのか、こちらも不明です。少なくとも城の遺構ではないのかな、といった
          感じです。
           全体として、ここに秀吉時代の城があったというのは、個人的に眉唾です。そもそも、
          四宮光利は秀久から見れば旧勢力の外様家臣であり、新たに城を築かせてあげるほど
          気を許せたものか、ちょっと疑問に思います。あるいはもっと古い時代の城館があったの
          かもしれませんが、光利については、この辺に居を構えたという程度だったのではない
          かというのが私見です。

           
 西から乙井城跡の丘を望む。
諏訪神社本殿を見上げる。 
 諏訪山古墳。
南側斜面の堰き止め地形。 
 堰き止め地形の開口部。
東側斜面の堰き止め地形。 
こちらは規模が大きく、クレーターみたいになっています。 


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