引田城(ひけた)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 寒川氏か
 遺構  : 石垣
 交通  : JR高徳線引田駅徒歩30分


       <沿革>
           東讃の大身領主寒川氏によって築かれたとみられているが、詳しい経緯は明らかでない。
          永正年間(1504〜21)ごろには、信濃からやってきた四宮右近が、寒川家臣となって城主を
          務めたとされる。
           元亀元年(1570)、阿波三好氏重臣篠原長房と、その娘婿の讃岐国人安富盛定は、主君
          三好長治の命として寒川元隣に大内郡内4郷を割譲させた。右近の後裔である四宮光武が
          守っていた引田城も引き渡され、三好氏重臣矢野国村が城将となった。天正七年(1579)、
          国村は脇城外で謀殺されたが、後任の引田城主については不明である。
           天正十一年(1583)四月、阿波を平定した長宗我部元親が讃岐へ進軍すると、三好一族の
          十河存保は羽柴(豊臣)秀吉に救援を依頼した。柴田勝家と対峙していた秀吉は、ひとまず
          仙石秀久・小西行長・森九郎左衛門らに2千の兵を与えて援軍に向かわせた。秀久らは高松
          に上陸して喜岡城などを攻めたが、落とすことができず、転進して三好方の引田に上陸した。
          同じころ、香川信景・大西頼包ら率いる長宗我部軍5千が引田攻略に向かっていた。仙石勢
          は城を出て、入野山の隘地に兵を伏せて待ち構えた。奇襲は成功したものの、やがて元親の
          本陣のある田面から後詰が到着すると、数で勝る長宗我部軍は態勢を立て直し、仙石勢を
          引田城へ駆逐した。翌日、長宗我部勢は引田城を攻撃したが、秀久らはさしたる抵抗もでき
          ないまま、小豆島へ逃れた。長宗我部氏支配下における引田城主についても不明である。
           天正十三年(1585)の秀吉による四国攻めに際して、讃岐方面軍の宇喜多秀家・黒田孝高
          らは引田城近くの大坂峠を越えて阿波へ進軍していることから、引田城もこのときに羽柴勢の
          手に落ちたと推測される。ただし、引田城で戦闘があったかは定かでない。戦後、讃岐一国
          は秀久に与えられた。
           翌天正十四年(1586)の戸次川の戦いでの失態により秀久が改易されると、代わって生駒
          親正が讃岐国主となった。親正はまず引田城に入ったが、讃岐一国を治めるには東に寄り
          すぎていたため、聖通寺城に移った。結局、親正は高松城丸亀城の2城を築いて統治に
          あたったが、引田城も元和元年(1615)の一国一城令発布までは、東讃支配の城として存続
          したとみられている。仙石・生駒両氏の時代についても、引田の城主については定かでない。
 

       <手記>
           引田城は、香川県東端の引田湾に突き出た半島状の独立山に築かれています。本当に
          県の東の端っこにあり、良港とはいえここから讃岐一国を治めるというのは無理というもので、
          生駒親正ほどの政略家が何を思ってここに入ったのかちょっと不思議です。
           北西麓のキャンプ場か南西麓から登ることができますが、南西の方が港町にも近く、駐車
          スペースもあるので便利かと思います。馬蹄形の峰のピークごとに、櫓台と付属の小曲輪を
          並べた縄張りをしていて、なぜか資料によって各曲輪の名称がまちまちです。ここでは現地
          南西麓の案内板にしたがうことにします。
           ここからから登ると、見晴らしのよい狼煙台と呼ばれる細尾根を経て、西郭に到達します。
          さっそく櫓台の石垣が残っていて見ごたえがあり、立っている説明板には本丸および天守台
          と書かれています。ただ、位置関係や他の曲輪との比高差から、個人的にはここが主郭とは
          ちょっと考えにくいように感じました。
           引田城址はぐるっと一周できる散策路が整備されていて、どちら回りでも良いのですが、
          西郭から北に向かうと北郭に出ます。西辺には城内で最も豪壮に残る石垣があり、北西麓
          から登るとおそらく見逃しようがないと思いますが、南西麓からのルートだと陰に隠れた場所
          になるので注意が必要です。かつては引田湾がずっと入り込んでいて、地続きの登城路は
          北西に限られていたようです。北郭の西麓には玄関谷の小字があり、おそらくここが大手道
          だったのでしょう。すなわち北郭西辺の石垣は、登城者を圧倒するうえで重要な役割をもって
          いたものと考えられます。
           東端の東郭は、岬の先端であると同時に城内最高所でもあります。単純に考えればここ
          が本丸で、天守建築もあったとすればこちらだろうと推測されます。
           さらに少し先端側に下がったところに灯台があり、散策路はU字谷へと回ります。ここには
          化粧池という貯水池があり、「石囲い」という堰き止めの石垣が見られます。そして馬蹄形の
          反対側の先端の南郭を経て、また西郭に戻ってきます。
           引田城は堅城ですが、城地も城下も広いとはいえません。また前述の通り東に偏っている
          どころか端っこなので、讃岐の首府としては明らかに不適当です。繰り返しになりますが、
          親正がまず引田に入ったというのはちょっと謎です。とはいえ、西郭や化粧池にみられる角
          の丸い石垣は丸亀城にある生駒氏時代の腰巻石垣とよく似ていて、引田城の近世城郭化
          が同氏によってなされたものであることは疑いないでしょう。
           ちなみに、引田には廃城後も醤油醸造で栄えた港町の雰囲気が良く残っています。また、
          讃岐三白と称される香川特産の1つ和三盆糖のなかでも、引田は最高級品の産地です。
          引田城を訪れたら、城跡だけでなく古き良き港町と名物の和三盆干菓子も堪能してください。

 引田城山を望む。
西郭の石垣。 
 西郭石垣と説明板。
北郭の石垣。 
 同上。
化粧池。 
 化粧池の石垣(石囲い)。
引田城址から引田湾と引田の街を望む。 
 南郭のようす。
伝狼煙台跡。 
 南西麓の登城口。


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