笹尾砦(ささお) | |
別称 : 笹尾塁 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 武田信虎 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀 | |
交通 : JR中央本線長坂駅または小淵沢駅よりバス 「下笹尾公民館」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 享禄四年(1531)一月、甲斐国内の今井氏や大井氏、栗原氏などの国人層の叛乱に際して、 武田信虎によって築かれた。直接的には、これら国人層と結んだ諏訪頼満の侵攻に備えての ものであった。『当社神幸記』によれば、「下宮牢人衆」を守備兵として入れたが、同月二十一 日の夜に「自落」したとある。下宮とは諏訪大社下社とされ、永正十五年(1518)に頼満により 滅ぼされた下社大祝金刺氏の残党を指すものと推測されている。 翌享禄五/天文元年(1532)、国人衆の叛乱は鎮圧されたが、笹尾砦がいつごろ信虎方の 手に戻ったのかは定かでない。 他方、『北巨摩郡誌』によれば、笹尾砦は天文二十一年(1552)に烽火台として築かれたと される。これが正しければ、笹尾砦は国人衆の叛乱が収まった時点で、一度廃城となったこと になるものと思われる。ただし、このころ武田氏は北信濃の砥石城を落として村上義清を追い 込みにかかっており、あえてこの時期に笹尾に砦を構える必要性があったのか疑問である。 同書によれば、武田家臣笹尾岩見守(石見守か)の居城となり、その後同じく小田切某の城 となったとされる。しかし、笹尾石見守ないし笹尾氏については不明である。 『日本城郭大系』では、天正十年(1582)の天正壬午の乱に際して北条氏が用いた可能性 について示唆しているが、確証はない。 <手記> 笹尾砦は、釜無川の切り立った河岸の峰に築かれた城で、両脇は険しい谷となっています。 現在、一の郭と二の郭が整備されており、周辺の斜面には桜が植えられるなど、公園化が なされています。 南端の主郭から北に向かって一直線に6つの曲輪が並んでおり、それぞれ一の郭から六の 郭と順繰りに名づけられています。また、曲輪間の堀についても、一の堀から三の堀まで仮称 が付けられています。かつては全て良好に残っていたようですが、現在は三の郭から二の堀、 四の郭にかけての辺りが広々とした駐車場となっており、城内を南北に分断する形で破壊され てしまっています。せっかく整備が進められているのに、他方で破壊も行われているとあっては、 足し引きゼロ(むしろ遺構が消滅した分マイナスか)になってしまって残念です。 一の郭と二の郭は、東辺を除いた3辺に土塁が築かれています。とくに、一の郭南端の土塁 は鉤字になっており、櫓台であった可能性が考えられます。一の郭と二の郭の間には、堀を 兼ねた虎口が開いており、両曲輪の境は曖昧です。二の郭には、もう1つ土塁を開口した虎口 があります。 五の郭と六の郭は削平が甘く、自然地形に近いこんもりとした空間となっています。あるいは、 曲輪を設けたというよりは、堀を切って尾根を遮断したものという方が妥当かもしれません。 笹尾砦は、台地上にあるものの、中央本線や中央高速道路が走る台地の幹線方面からは 少々離れています。したがって、釜無川越しに眼下に収めることのできる旧甲州街道を扼する ことが、砦の第一の役割だったものと推測されます。 使用時期についてですが、信虎期の国人衆の叛乱時の臨時砦とするには、縄張り・規模とも 立派に過ぎます。他方で、一の郭・二の郭の土塁は信濃側を向いているので、今に残る遺構 が武田氏によって完成されたものであるのも事実と思われます。笹尾氏が実在したかは不明 ですが、少なくとも武田信玄の代までは使われていたものと推測されます。天正壬午の乱で 北条軍が取り立てたかどうかは、補強する材料がないので分かりません。 |
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一の郭のようす。 | |
一の郭の土塁。 奥の鉤字部は櫓台か。 |
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一の郭土塁から二の郭土塁を望む。 | |
一の郭土塁と二の郭土塁の間の虎口。 | |
二の郭の土塁。 | |
二の郭の虎口。 | |
一の堀。二の郭と三の郭の間。 | |
五の郭のようす。 | |
三の堀。五の郭と六の郭の間。 | |
六の郭のようす。 | |
四の堀。六の郭の外側。 | |
おまけ:公園化された笹尾砦の桜と甲斐駒ケ岳の遠景。 |