戸石城(といし)
 別称  : 砥石城
 分類  : 山城
 築城者: 不詳
 遺構  : 曲輪、土塁、石塁、堀、虎口
 交通  : 上田駅よりバス。「伊勢山」バス停下車徒歩10分

       <沿革>
           天文十年(1541)の海野平の戦いで小県郡を制した村上義清によって築かれた
          とも、それ以前からあった真田氏の城砦を拡張したともいわれる。ただし、海野平
          合戦以前の真田氏は滋野三家の庶流という位置づけに過ぎず、戸石城を築ける
          だけの勢力を有していたのかは疑問である。義清は上田平や塩田平を押さえる
          拠点として戸石城を重視し、重臣楽巖寺雅方や一族の山田国政らを配した。
           天文十七年(1548)、戸石城に迫った武田晴信は、上田原の戦いで村上軍に
          大敗を喫した。塩尻峠の戦いを経て勢力を立て直した晴信は、同十九年(1550)
          に再び戸石城攻略の兵を挙げた。7千の武田勢に対し、籠城方は5百ほどだった
          とされるが、天嶮の戸石城はひと月近く耐えた。その間に、義清は対立していた
          高梨政頼と講和し、2千の兵を率いて後詰に駆け付けた。挟撃される形となった
          武田勢は総崩れとなり、義清の激しい追撃もあって1千近くもの死傷者を出した
          とされる。重臣横田高松が戦死したほか、晴信自身も影武者を身代わりとして
          ようやく脱出できたといわれる(戸石崩れ)。
           しかし、事態は翌天文二十年(1551)に急展開を迎える。海野平の戦いで義清
          に領地を逐われ、武田氏を頼っていた真田幸隆(幸綱)が、謀略をもって戸石城
          を乗っ取った(『高白斎記』)。このときの謀略の内容は明らかでないが、村上氏
          に属していた幸隆の実弟矢沢頼綱の内通によるものとする説がある。
           天文二十二年(1553)には小山田虎満が城番で、晴信が戸石城の「再興」の
          ために出陣していることが、史料からうかがえる。同年中に義清が所領を捨てて
          越後へ落ち延びると、戸石城は旧領を回復した幸隆に任された。幸隆は戸石城
          を詰城としていたとも、あくまで真田本城の支城であったともいわれる。
           天正十一年(1583)、幸隆の跡を継いだ昌幸は上田城を築いて居城とした。
          同十三年(1585)には第一次上田合戦が勃発し、上田城に昌幸が、そして戸石
          城には昌幸の嫡男信幸が立て籠もった。攻め手の徳川勢は、上田城に取り付い
          たところで迎撃され敗走。戸石城の信幸も追撃に打って出て、逃げる徳川軍の
          側面を衝いた。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにともなう第二次上田合戦では、戸石城には
          信幸の弟信繁(幸村)が詰めた。今度は徳川方にあった信之(信幸から改名)を
          先んじて戸石城に向かわせ、信之は抵抗を受けることなく城を接収した。しかし、
          徳川軍はまたも上田城攻略に失敗し、押さえの兵を残して転進した。
           戦後、戸石城は廃されたものと推測される。


       <手記>
           若い頃とはいえ名称武田信玄の攻撃を弾いたことから堅城として有名です。
          にもかかわらず謀略によってわずか1日で落ちたことから、真田幸隆の知将ぶり
          を示す舞台ともなっています。その名のとおり山上には平たい尾根が続く一方、
          両脇の斜面は砥石のように、あるいは戸板のように切り立っています。登城路
          は南・西・東と3ヶ所あるようですが、近年駐車場などが整備されている南麓が
          一般的です。登り口ではやや謎なデザインの櫓門が出迎えてくれます。
           戸石城は、大きく「砥石城」「本城」「桝形城」「米山城」の4つの区画から成る
          複合城郭と解されています。このうち米山城については独立性が高いことから、
          戸石城とは別個の城とされることもありますが、ここでは別城一郭のうちとして
          扱います。ちなみに、米山城はもともと在地領主小宮山氏の詰城だったとも
          いわれ、読みは「こめやま」だそうです。米山城は北から南に3段の削平地が
          並び、最上段の曲輪下には石積みが認められます。
           米山城以外の3エリアは同じ尾根上に一直線に並んでいて、最南端に位置
          しているのが砥石城です。全体の城名と同じということから中核的な箇所かと
          思いきや4区画のなかで造りはもっとも単純で、ピークの曲輪と付属の腰曲輪、
          そして堀切が穿たれているのみです。堀や切岸は大きいのですが、拍子抜け
          の感は否めません。
           尾根伝いに北上すると、すぐに本城エリアに入ります。ここはうって変わって
          広めの曲輪が扇状に展開しています。土塁や堀はあまりなく、防衛線としては
          心もとないですが、急峻な戸石城にあってそれなりの兵を駐留できるスペース
          として重要な意味をもつものと推測されます。
           北端の桝形城は、メインの曲輪に桝形状の虎口が設けられているのが名称
          の由来とされています。この曲輪は前後に深い堀切をもち、堀を隔ててさらに
          北側に物見台状の曲輪が続いています。
           先述の通り、4つのエリアのなかで全体の城名を冠する「砥石城」が単純な
          構造をしているというところが気にかかるところです。おそらく村上氏以前から
          狭義の砥石城と米山城は存在していて、後に義清が本城と桝形城を拡張・
          整備したのではないかと拝察されます。

           
 真田本城跡から戸石城跡を望む。
登山口の模擬櫓門。 
 米山城下の堀切跡。
米山城の石積み。 
 米山城最上段の曲輪。
2段目の曲輪。 
 3段目の曲輪。
狭義の砥石城のメインの曲輪。 
 狭義の砥石城の堀切。
同じく切岸。 
 本城の曲輪群。
本城の土塁を伴った曲輪。 
 本城の石塁。
本城のメインの曲輪。 
 本城背後の堀切。
桝形城メインの曲輪南側の堀切。 
 桝形城の桝形状の虎口跡。
桝形城のメインの曲輪。 
 北端の堀切を隔てた物見台状の曲輪。


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