川勝寺城(せんしょうじ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 不明
 遺構  : 堀跡
 交通  : 阪急京都線西京極駅徒歩10分


       <沿革>
           大永七年(1527)二月十三日、波多野・三好連合軍が桂川を挟んで対峙した細川高国・将軍
          足利義晴軍を破った。世にいう桂川の戦いである(桂川原の戦いとも)。この戦いでは、高国軍
          が吉祥院以南の川辺に陣取り、西七条泉乗寺には若狭国守護武田元光が、六条には義晴の
          本陣が置かれた。この泉乗寺とは川勝寺の転訛と考えられている。川勝寺城は、このときには
          すでに存在し、武田軍の陣所となったのではないかと推測されている。戦端は、三好軍が渡河
          して武田軍に襲い掛かったことで開かれ、川勝寺付近で激戦となった。このため、この戦いは
          (桂川)川勝寺の戦いとも呼ばれる。
           同年十一月十九日、義晴・高国を支援した越前の朝倉宗滴が軍を率いて上洛し、泉乗寺口
          で細川晴元軍を破った。このときも、いずれかの陣所として川勝寺城が使われた可能性が考え
          られる。
           永禄元年(1558)五月、三好長慶に京を逐われていた将軍足利義輝と細川晴元が、近江の
          六角義賢の支援を得て京奪還に動くと、三好長逸・松永久秀の軍が一時川勝寺に陣取った。
          このときも、川勝寺城が使用されたものと推測されている。
           川勝寺城のその後については不明である。


       <手記>
           七条通の北側に建つ長福寺一帯が、川勝寺城址とされています。東辺の堀跡が水路として
          残っていたようですが、現在では暗渠となっており、一部が長福寺の門前への通用路となって
          います。
           川勝寺は、その名の通り秦河勝が没した地に建てられた寺院ということですが、今では地名
          のみとなっているようです。長福寺も平安時代に創建された古刹ということで、少なくとも城内
          に川勝寺があったということではないようです。
           七条通から延びる旧道は、川勝寺城址のすぐ先で南に鉤の手に折れ、河原町に至ります。
          おそらくここにかつて橋ないし渡しがあり、川勝寺城は文字通り西の京極を押さえるための城
          だったものと推測されます。
           川勝寺城は、その存在・所在はほぼ確定されているものの、城主など歴史的経緯はほとんど
          不明な城です。周辺には一見したところ北尾姓の家が多いのですが、城との関係は不明です。

           
 川勝寺城址に建つ長福寺。
東辺の堀跡とされる水路跡の通用路。 


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