原田城(はらだ)
 別称  : なし
 分類  : 平城および平山城
 築城者: 原田氏か
 遺構  : 土塁
 交通  : 阪急宝塚線曽根駅徒歩5分


       <沿革>
           『足利季世記』には、天文十年(1541)に細川晴元の家臣木沢長政が原田城を攻めたと
          する記述があり、16世紀初めごろには築かれていたと考えられている。また、南北朝時代
          初頭に国人原田氏の活動が確認されることから、築城はそのころまで遡るともいわれる。
           天文十六年(1547)には、晴元勢が足利義晴・細川氏綱方の原田城や三宅城を大軍で
          攻め落とした。『摂津誌』によれば、このときの城主は三好日向守(長逸)であったとされる
          が、長逸の仕える三好長慶は当時まだ晴元の家臣であったため、疑問が生じる。
           天正六年(1578)、織田信長が謀反した荒木村重を攻めた際、中川瀬兵衛(清秀)・古田
          左介(重然)が「原田郷」に付砦を置いたとされる。原田城ないしその跡を取り立てたもの
          とも考えらえるが、詳細は定かでない。


       <手記>
           原田城には北城と南城の2つがあります。北城は舌状の丘陵端部を利用した平山城で、
          中心部にある旧羽室家住宅はNPO法人が運営する交流施設「原田しろあと館」となって
          います。開館は毎週土日で、敷地内には土塁が残るとのことでしたが、私が訪れたのは
          平日だったので間近には見られませんでした。門前の道路沿いに説明板があり、前方下
          からは、一応土塁らしい地形を見上げることもできした。
           南城は北城の南方100mほどのところに位置し、原田村の古絵図にしたがえば、現在の
          原田会館付近を西端とする東西に長い方形の館城だったようです。こちらは完全に住宅
          街に飲み込まれ、遺構や案内などはありません。
           直感的には、在地領主の居館として南城が築かれ、後に要害として北城が増設された
          とするのが普通でしょう。ただ、発掘調査の結果では北城の方が古く、また南城が単族で
          存在していた期間があるようです。要害を捨てて平地へ移った理由はなかなか容易には
          想像がつかず、興味深い事例のように思います。

 原田北城跡(原田しろあと館)。
説明板と城址標柱。 
 前方下から土塁地形を見上げる。
原田会館。 
南城の西端付近にあたります。 


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