郡山城(こおりやま) | |
別称 : 郡山砦 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 郡正信か | |
遺構 : なし | |
交通 : JR京都線茨木駅ないし阪急京都線茨木市駅 からバスに乗り、「郡」下車徒歩10分 |
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<沿革> 織田信長によって高槻城主に任じられた和田惟政の家臣・郡兵太夫正信の居城とされる。 郡氏はもともと周辺を領していた土豪であったと思われるが、出自や郡山城の築城時期など 詳細は不明である。 惟政が摂津の新興勢力である荒木村重や中川清秀と対立すると、、元亀二年(1571)8月 に白井河原の戦いが勃発した。郡山城北東の白井河原を挟んで両軍が対峙するも、惟政勢 は兵力で大きく劣るうえ陣容が整っていなかったため、正信は単身で村重の陣を訪れ時間 稼ぎを図ったものの、見破られて逆に戦闘が始まってしまったといわれる。このうえは撤退を 進言した正信に対し、惟政は武門の恥と突撃を敢行した。正信も、もはやこれまでと覚悟を 決め、名馬「金屋黒」を駆って奮戦し、討ち取られたとされる(『陰徳太平記』)。 後に伊丹親保の子で正信の甥に当たる宗保が郡氏を継いで荒木家臣となったが、郡山城 のその後については詳らかでない。宗保は、村重が信長に謀反を起こして没落すると羽柴 秀吉に仕え、大坂の陣で豊臣軍に属して自害した。 <手記> 『東摂城址図誌』によれば、郡山城は現在の浪速少年院の敷地にあったとされています。 浪速少年院は大正十二年(1923)に設立された、国内初の少年院の1つだそうですが、その 工事中に大量の石材が掘り出されたそうです。 とはいえしっかりとした発掘調査はなされなかったようで、今なお確定には至っていません。 現在は少年院の門前に石碑や説明板が設置されているのみです。 |
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浪速少年院門前の石碑と説明板。 | |
東から比定地の丘を望む。 |