高槻城(たかつき)
 別称  : 入江城
 分類  : 平城
 築城者: 近藤忠範か
 遺構  : 堀跡、石垣跡
 交通  : JR東海道本線高槻駅徒歩10分
       または阪急京都線高槻市駅徒歩5分


       <沿革>
           正暦年間(990〜95)に近藤忠範によって築かれたと伝えられるが、確証はない。記録に
          現れるのは、14世紀前半に入江左近将監春則が入城してからである。入江氏は工藤氏の
          一族とされ、駿河国有渡郡入江荘を本貫とするとされる。足利氏に属して戦功があり、この
          地に城を築いて移り住んだとされる。その後、高槻城は南北朝時代を通じて入江氏の居城
          であった。
           大永七年(1527)の桂川の戦いに際し、山崎城に在陣していた摂津守護の薬師寺国長
          は、細川晴元方の波多野稙通の攻撃を受けて高槻城へと逃れた。このとき高槻城が落城
          した記録はないが、国長がまもなく晴元に降伏していることから、高槻城も開城したものと
          思われる。ただし、その後も入江氏が城主を務めたようである。細川氏が衰え、三好長慶
          が台頭すると、城主入江春継は三好氏に従った。
           永禄十一年(1568)、三好氏の拠点である芥川山城が織田信長によって攻略されると、
          高槻城も織田氏の手に帰した。翌十二年(1569)の本圀寺の変で三好三人衆が京の足利
          義昭を襲うと、春継は三好勢に加担した。しかし、芥川山城主和田惟政の活躍により乱は
          鎮定され、春継は討ち死にした。この功により、高槻城は惟政に与えられ、惟政は居城を
          高槻城に移した。高槻城が近世城郭としての一歩を踏み出したのは、惟政の時代である
          といわれる。
           ほどなく信長包囲網が形成されると、摂津の情勢は不安定化した。惟政は新興勢力の
          荒木村重や中川清秀と対立し、元亀二年(1571)に高槻城の西方5kmほどの白井河原で
          合戦に及んだ(白井河原の戦い)。五倍以上の兵力差があったといわれるこの戦いで、
          和田家臣郡正信は惟政に高槻城への撤退を進言したものの、惟政は聞き入れず敵陣に
          突入したとされる。惟政・正信はじめ和田軍は多勢に無勢であえなく玉砕し、惟政の子の
          惟長が高槻城主を継いだ。
           惟長には、混迷を深める摂津で家中をまとめるだけの手腕はなく、重臣高山友照・重友
          (右近)父子が台頭した。元亀四年(1573)、惟長は高山父子を暗殺しようと高槻城に誘い
          だしたが、すでに情報を察知していた父子は逆に人数を揃えて惟長らと斬り結び、これを
          追放して下克上を成した。惟長は追放劇に際して負わされた傷がもとでほどなく死んだと
          され、高山父子は村重に通じて高槻城主に収まった。熱心なキリシタンであった高山父子
          は、城の改修を進めるとともに、教会を建築するなどして高槻をキリスト教の一大中心地と
          した。
           天正六年(1578)、信長に降っていた村重が謀反を起こすと、右近はこれを思いとどまら
          せるために、妹と息子を村重へ人質に差し出した。しかし、村重の意思は変わらなかった
          ため、高槻城は信長の攻略目標となった。信長は、降伏すれば不問とするが、抗戦する
          ならば国内のキリスト教宣教師を皆殺しにすると脅した。悩みぬいた右近は、城主の地位
          も家族も棄てて、信長の前に単身降伏を願い出た。友照はその後も抗戦したが、村重が
          逃亡したことにより叛乱は終結し、右近は高槻城主へ返り咲くことになった。
           本能寺の変後の天正十三年(1585)、右近は豊臣秀吉の命により播磨船上城へ転封と
          なり、高槻は秀吉の直轄領となった。この間は代官が駐在していたが、文禄四年(1595)
          には新庄直頼が3万石で高槻城主となった。直頼は慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで
          西軍に属したために改易となり、高槻は今度は徳川氏の直轄領となった。
           大坂の陣で豊臣氏が滅んだ後の元和元年(1614)に内藤信正が長浜から4万石で高槻
          に移封となり、高槻藩が成立した。同三年(1617)には土岐定義が入り、土岐家2代、形原
          松平家信、岡部宣勝、形原松平康信と城主が替わった。慶安二年(1649)に永井直清が
          勝龍寺陣屋(山城長岡藩)から高槻3万6千石に加増・転封となる及んで、ようやく城主家
          が落ち着いた。以後、永井家13代を経て明治維新を迎えた。


       <手記>
           高槻は、淀川が山崎と男山を抜けて平野部に出た先の喉口部にあたる要衝の地です。
          現地の説明によれば、天神山丘陵の南側に広がる沖積地のわずかな高まりを利用した城
          ということです。
           遺構は、残念ながらほとんど残っていません。本丸は、府立槻の木高校の敷地となって
          います。三の丸の南端一帯が城址公園となっていて、ここに復元石垣や高山右近像など
          があります。また、公園の北西隅の入り口付近に、中高生の卒業制作のような城址碑が
          建っています。
           城址公園は、公園としてはなかなか整備が行き届いていて、三の丸の北東隅付近には
          「しろあと歴史館」が立っています。ほかにも、旧城内のあちこちに石碑や説明板があり、
          今日の市民の城跡に対する意識の高さがうかがえます。ただ、やはり残念なことに、遅き
          に失したのかな、という気がしました。
           ちなみに高槻は、JR東海道線新快速を使えば大阪・京都間で唯一の停車駅ですから、
          とてもアクセスしやすい城跡といえると思います。なお、高槻城は近世城郭ですからその
          範囲は広いため、上の地図には城址公園の位置を示しました。

           
 高槻城址碑。
高槻城址公園のようす。 
 城址公園内の高山右近像。
大手門跡碑。 


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