子母口城(しぼくち)
 別称  : 渋口城
 分類  : 平山城
 築城者: 江戸氏か
 遺構  : なし
 交通  : JR南武線武蔵中原駅徒歩20分


       <沿革>
           秩父平氏江戸氏嫡流江戸遠江守は、南北朝の争乱に際して新田義興を矢口渡で謀殺
          するなど足利尊氏方として活躍し、稲毛荘渋口郷を含む所領を与えられた。『探訪ブックス
           日本の城』では武蔵江戸氏の持ち城とあり、遠江守以降に築かれたと推測しているもの
          と思われるが、論拠は不明である。遠江守の諱は一般に「長門」とされているが、『源威集』
          にみられる「高良」を充てる説もある。
           応安元/正平二十三年(1368)の武蔵平一揆によって江戸惣領家は没落し、至徳元/
          元中元年(1384)には渋口郷が新田氏族岩松直国に与えられた。長門の次男正長とその
          子蒲田忠武はこの裁定に不満を抱き、引き渡しを妨害した。『日本城郭大系』では、渋口
          郷は岩松氏領地として岩松氏が築城者であることを匂わせているが、実際に引き渡しが
          成立したのかは定かでない。また、応永二十四年(1417)には直国の大甥で当主の岩松
          満純が上杉禅秀の乱に加担した罪で斬首され、岩松氏は大いに勢力を減じた。このときに
          本領以外の所領の多くは没収されたとみられ、遅くともこのときには、渋口郷は岩松家の
          手を離れたと推測される。
           永禄二年(1559)成立の『小田原衆所領役帳』には、渋口のうち15貫文余を中田藤次郎
          が、十貫文を太田康資が領していたとある。また、『新編武蔵国風土記稿』の子母口村の
          項には、豊島郡中里村宗傳寺の鰐口の銘に「天正十年壬午八月一日 稲毛郷渋口遅川
          兵庫」と記されているとある。遅川氏は、小曾川または小骨川とも書き(読みはいずれも
          「こそかわ」)、『姓氏家系大辞典』によれば「橘樹郡の名族」とされるが、出自等は不明で
          ある。兵庫という名乗りから士分ではあったと思われ、この遅川氏の城館であった可能性
          も考えられる。遅川氏は江戸時代には伊藤氏を称し、子母口きっての旧家として現在まで
          続いている。
           なお、『探訪ブックス』には江戸氏の後は伊藤氏の持ち城とあるが、上述のとおり伊藤姓
          を名乗るのは江戸時代に入ってからのようである。


       <手記>
           子母口城は、『大系』など各種文献では所在不明の城とされています。多摩地域を中心
          に旧地名を収集・紹介しているブログサイト『谷戸めぐり』さまによれば、現在子母口貝塚
          跡として公園となっているあたりに「クラヤシキ」の小字があたとされています。この貝塚の
          あるところは、矢上川と江川に挟まれた細い丘陵地の最先端のふくらみにあたり、城館を
          築くにはちょうど良い地形といえます。この舌状部の付け根、蓮乗院前の坂を登り切った
          角には小さなお社があり、ここに堀切を穿てば手頃な城が出来上がります。お社付近の
          字を「堂山」と呼ぶそうで、観音堂があったことにちなむとされているそうですが、あるいは
          「城山」の転訛と考えることもできるでしょう。
           蓮乗院の西隣には橘樹神社があり、その南には前出の伊藤家があります。何れも貝塚
          の丘の西麓にあたり、居館を設けるには適地といえます。とくに橘樹神社裏手の窪地は
          開発に向いた小谷戸地形となっており、この辺りに領主の館があった可能性は高いもの
          と考えています。

           
 子母口貝塚跡の公園(字「クラヤシキ」付近)。
貝塚跡からの眺望。 
 蓮乗院。
橘樹神社。 
 字堂山付近のお社。
さらに峰の付け根側にある富士見台古墳。 


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