志津城(しづ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 藤原共資か
 遺構  : なし
 交通  : 浜松駅からバスに乗り、
      「村櫛」下車徒歩15分


       <沿革>
           遠江国司として赴任した藤原共資によって、正暦四年(993)に築かれたと伝わる。共資は
          寛弘七年(1010)に井伊谷へ移り、そこで拾った男児を養子にして共保と名乗らせ、井伊氏
          の祖となったとする伝説がある。『寛政重修諸家譜』によれば、共資は藤原良門の三男利世
          の子孫とされるが、良門の子に利世の名はみられず、また共資の実在した裏付けもない。
           『日本城郭大系』では、15世紀末から遠江侵攻を本格化させた今川氏親およびその名代
          の北条早雲(伊勢宗瑞)と、遠江守護・斯波氏との間で係争の城となったと推測している。
          


       <手記>
           浜名湖の中央部に細長く伸びる、庄内半島の先端近くに築かれた城です。上の図の緑点
          付近に城址碑と説明板が建っていますが、城跡はその南側に緑円で示したあたりにあった
          とされています。たしかに今昔マップを見ると、半独立の小峰があったようですが、明治中期
          時点で既に3分の1ほどが取り崩されていたようです。今では埋め立て用の土取りですっかり
          平らになり、山ごと消滅しています。
           石碑の北側の小山に、上の地図の通り西麓から登っていくと、頂部に「藤原備中守共資公
          之墓」と彫られた記念碑が建っています。井伊氏の分家の1つ・貫名家から日蓮を輩出した
          ことにちなむそうですが、城域がここまで及んでいた可能性は、高いとはいえないでしょう。
           志津城は立地を鑑みるに、平安時代の城とは思えません。井伊氏の祖が村櫛に居を構え
          ていたとしても、城自体はやはり『大系』のように戦国時代に重要視されたものと見るべきと
          考えられます。

           
 城址碑。
説明板。 
 「藤原備中守共資公之墓」碑。
 ここは城域ではなさそうです。
周辺現況。 
城山はこの右手にあったとされています。 
中央の小山頂部に上の墓碑があります。 


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