椎谷陣屋(しいや) | |
別称 : なし | |
分類 : 陣屋 | |
築城者: 堀直之 | |
遺構 : 曲輪、土塁 | |
交通 : 北陸自動車道西山ICから車で15分 | |
<沿革> 堀秀政・秀治父子の家老として名高い堀直政の四男直之は、秀治が越後福島藩を改易となった 後、大坂夏の陣で薄田兼相を討ち取る功を挙げ徳川家の直臣に取り立てられた。元和二年(1616) には越後に5千石を与えられた。当初は妙法寺にある超願寺を仮陣屋としていたが、同五年(1619) には陣屋を椎谷に新築した。 直之は上総国に加増を受けて最終的に9500石となり、その子直景の代にさらに500石を加増され て1万石の大名となった。このとき、直景は上総国夷隅郡苅谷に陣屋を置き(上総苅谷藩)、直景の 子直良は同国市原郡八幡へ移った(上総八幡藩)。 元禄十一年(1698)、直良の子直宥の代に堀家は越後に所領をまとめられ、椎谷藩が成立した。 したがって、「椎谷陣屋」の歴史も厳密にはここに始まることになる。このころ、陣屋は字「唐見の前」 に移され、さらに正徳五年(1715)に現在の字「打越」に移転した。ただ江戸定府だったため、藩主 が陣屋に入ったことはないとみられる。 慶応四年(1868)五月、椎谷陣屋は戊辰戦争による兵火で焼失した。翌年の版籍奉還で旧藩主 堀之美は藩知事となったものの、陣屋が再建されずにそのまま廃されたものと思われる。 <手記> 地図で見て実際に訪れて、強く思うのは「なぜここに選地したのだろう」という点です。江戸定府 1万石の小藩とはいえ、あまりにも発展性に乏しく、交通の要衝というわけでもなく、陣屋の建設地 に椎谷が選ばれた理由がとにかく推察できません。現場は日本海に臨む小丘で、字唐見の前が どこなのかは分かりませんが、字名から察するに見晴らしのよいさらに山手であったとも考えられ ます。とすると、政治・経済よりも要害性を重視したのかもしれませんが、それでも椎谷を選ぶ積極 的な動機が思い浮かびませんでした。 陣屋跡には住宅も数戸建っていますが、中心部は稲荷神社境内などになっており、土塁や門跡、 大手の鉤の手などが残っています。神社本殿のあるところが藩邸跡とのことですが、あまり広くは なく、やはり出先の役所程度のものであったと思われます。 |
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椎谷陣屋跡を望む。 | |
大手の鉤の手。 | |
表門跡。 | |
砲術稽古場跡。 | |
藩邸跡の稲荷神社。 | |
馬場跡。 | |
裏門跡。 | |
裏門跡脇の土塁。 | |
役所跡。 |