新戸陣屋(しんど)
 別称  : 内藤清成陣屋
 分類  : 陣屋
 築城者: 内藤清成
 遺構  : なし
 交通  : JR相模線相武台下駅徒歩5分


       <沿革>
           天正十八年(1590)、徳川家康は関東に移封となり、その家臣内藤清成は相模国大島・田名・
          当麻・新戸・座間宿の6ヶ村5千石を与えられた。清成は新戸村に陣屋を構え、その広さは二反
          六畝あまり(約2600平方メートル)であったとされる。清成自身は奉行として江戸に詰めており、
          陣屋に住むことはなかった。ちなみに、江戸の清成屋敷は現在の新宿御苑一帯の広大なもので、
          その屋敷の眼前に新しく開かれた宿場(内藤新宿)が、現在の新宿の由来である。
           関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)、清成は上総・下総・常陸国内に1万6千石を加増されて、
          2万1千石の大名となった。ただ、大名に列した後も新たに城を築いたわけでもなく、さりとて新戸
          陣屋を藩府としたわけでもないようである。清成の子清次は、はじめ父とは別に常陸国に5千石を
          与えられていたが、父の死後家督を継ぐと、遺領と併せて2万6千石となった。
           藩府が定まるのは次の清政の代のことである。元和八年(1622)、清政は4千石加増のうえ安房
          へ移され、安房勝山藩が成立した。
           その後も陣屋は使用されていたようだが、元禄十三年(1700)、忍藩阿部氏の領地となっていた
          ときに廃されたとされる。なお、『新編武蔵風土記稿』にはこのときの領主を阿部正喬としているが、
          当時の当主は正喬の父正武である。誤記なのか正喬が別に所領をもっていたのか、詳細は不明
          である。


       <手記>
           相武台下駅近くの白山神社の東側に、「陣屋小路」と呼ばれる小道と字名が残っています。小道
          の途中に、陣屋小路の標柱と稲荷社があります。この稲荷は陣屋の鬼門にあたるそうです。遺構
          はとくにありません。
           陣屋周辺は鳩川とその支脈に挟まれた台地の先端にありますが、陣屋ですのでさほどの要害性
          は認められません。


           
 陣屋小路の標柱と陣屋稲荷。
陣屋小路周辺のようす。 


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