新宮行家屋敷(しんぐうゆきいえ)
 別称  : 行家屋敷
 分類  : 平城
 築城者: 新宮行家
 遺構  : なし
 交通  : JR紀勢本線新宮駅徒歩15分


       <沿革>
           新宮十郎行家は、初名を源義盛といい、源為朝の十男にあたる。熊野別当の娘を母にもち
          (新宮神官鈴木重忠の娘とも)、同母姉の丹鶴姫は熊野別当行範に嫁いだ。『源平盛衰記』
          によれば、義盛は平治年間(1159〜60)に新宮へ移り住み、新宮行家を名乗ったとされる。
          下熊野の行家屋敷は、このときに建てられたものと推測される。
           行家は、治承四年(1180)に平家追討の令旨を諸国の源氏一族に伝えたことで知られる。
          しかし、甥の源頼朝と対立し、源義経と結んで頼朝追討の院宣を受けたものの、文治二年
          (1186)に捕えられ、次男家光・三男行頼とともに斬首された。
           元亀二年(1571)、熊野七上綱の1人新宮周防守行栄が、居館を下熊野から千穂ヶ峰東麓
          へと移した(新宮周防守館)。七上綱とは熊野別当より熊野の統治を任された7家のことで、
          行栄は7千石ほどを領していたといわれる。行栄は行家の子孫を自称しているが、その間の
          系譜については詳らかでない。行栄がもと住んでいた下熊野の館が行家屋敷と同一のもの
          であったとすると、新宮氏は400年ほどの長きにわたって行家屋敷の地にあったことになる。
           行栄は、天正年間(1573〜92)に堀内氏善によって暗殺された。遅くともこのときまでに、
          下熊野の新宮氏館は廃されたものと考えられる。ちなみに、堀内氏も行家後裔を称している
          がこちらも確証はない(熊野別当家の子孫とも)。


       <手記>
           新宮行家屋敷は新宮駅の南東、市田川のほとりにあったとされています。その所在地は、
          江戸時代に描かれた『新宮古図』に記された部分から推定されています。遺構はなく、比定
          地の一角に説明板があります(上の地図の緑点)。
           一般に行家屋敷と呼ばれていますが、行家殺害後も行栄の代まで使われていたとすると、
          新宮氏館と呼称するのが妥当ではないかとも思われます。

           


新宮行家屋敷跡説明板。


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