新宮周防守館(しんぐうすおうのかみ) | |
別称 : 新宮周防守屋敷、周防守屋敷 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 新宮行栄 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR紀勢本線新宮駅徒歩20分 | |
<沿革> 熊野七上綱の1人新宮周防守行栄の館跡と伝わる。七上綱とは、熊野別当に代わって 新宮周辺を合議制で統治した7家を指す。行栄の所領は7千石ほどであったとされる。 行栄は源為義の十男新宮行家の子孫とされるが、詳しい系譜は不明である。元亀二年 (1571)、行栄は行家以来累代とされる下熊野の屋敷から、この地に館を築いて移った。 天正二年(1574)、紀伊佐野の領主堀内氏虎が没し、有馬氏の養子となっていた次男 (弟とも)氏善が堀内氏を継ぐと、七上綱は有馬氏を併呑した堀内氏の勢力に圧迫される こととなった。行栄は七上綱のなかで最後まで氏善に抵抗し、ついには暗殺された。行栄 殺害の前後に、氏善は居館を行栄の南隣に築いた。 現地説明板では行栄暗殺を天正十九年(1591)のこととしている。しかし、氏善と行栄の 館が並んで建っていたとは少々考えにくい。『日本城郭大系』によれば、行栄の館は氏善 の館跡とされる全龍寺境内の三分の一を含む敷地であったとあることから、氏善の家督 継承から新宮移転、行栄暗殺に至る経緯について疑問が残る。 行栄暗殺と同時に屋敷も廃されたと推測されるが、江戸時代の古図には本広寺を囲う 堀が描かれている。あるいは、氏善の居館の一部として利用されたとも考えられる。この 場合、完全に廃されたのは慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで氏善が改易されたときと いうことになる。 <手記> 本広寺一帯が屋敷跡とされています。門前には説明板が設置されていますが、とくに 遺構はありません。 上記のとおり、行栄屋敷については氏善との関係において大きな疑問が湧いてきます。 行栄が新宮領主である間に、その隣に氏善が新しく館を築けたとは考えにくく、ましてや 両者が対立していたとなればなおのことです。普通にみれば、抵抗する行栄を暗殺して その所領を奪い、その屋敷跡に隣接してさらに大きな館を建てたとするのが自然と思わ れます。『大系』等で堀内氏館の築城年代を天正初期としている以上、行栄暗殺が天正 初期に早まるか、氏善の新宮への移転が天正十九年以降にずれ込まなければ、矛盾が 生じることになります。 |
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新宮周防守館跡(本広寺)。 |