駒形神社の塁(こまがたじんじゃ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 耳取大井氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR小海線・長野新幹線佐久平駅よりバス
       「下塚原」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
          旧中山道塩名田宿東外れに位置する駒形神社には、明確に城館遺構がみられるが、
         史料にはみられないため詳細は不明である。駒形神社は、耳取大井氏の大井政継に
         よって再興されたと伝わる。政継は、平賀玄信の名で知られる平賀城主大井玄信(諱
         は不明)の孫とされ、耳取城を攻め取って耳取大井氏を興したとされる。ただし、耳取
         大井氏はそもそも大井光長の四男行氏が、13世紀後半ごろに耳取に入植したことに
         はじまるとされる。玄信は光長の三男行光の子孫とされるが、政継が耳取大井氏を
         称するに至った経緯については詳らかでない。
          政継は、天正十年(1582)の天正壬午の乱に際して徳川氏に属し、政継の子政成は
         天正十八年(1590)の家康の関東移封に従って上州藤岡へ移った。このときまでには、
         塁は廃されていたものと考えられる。


       <手記>
          駒形神社は、両脇を千曲川の支流とそのまた支脈に挟まれた、小規模な舌状地形
         の先に鎮座しています。支流を挟んだ南側川沿いに旧中山道が東西に走っています。
         とくに史料にもみられないため、この神社が城跡であるという認識はまったくもっていま
         せんでしたが、中山道歩き旅の途中で私のなかの城跡レーダーがビビッとはたらき、
         ふらっと寄ってみたところ、確信を得ました。
          地形自体は、神社にしても城跡にしてもあり得るものであり、本殿裏にみられる土塁
         も、神社にはよくあるもので城跡と断ずるには足りません。決定的といえるのは、社地
         の入口、台地の付け根にあります。境内南東隅にもカーブを描いた土塁が残り、その
         外側は地続き部分を断ち切るように堀が付属しています。この土塁と堀は、神社には
         不要のものであり、なおかつ地続きの東側に対する防衛の意図がはっきり読み取れ
         ます。この堀は生活道路によって寸切れとなっていますが、かつては北東隅まで続い
         いていたものと推測されます。
          城館跡といっても、境内はそれほど広くなく、堀切の外側に城域が続いていたように
         は感じられないので、単郭のごく小規模な塁だったものと思われます。加えて、眺望が
         開けているわけでもなく、烽火や鐘の音も伝わりやすい地形とはとても思えないので、
         街道監視や関所の役割以上の機能があったようにはみえません。
          駒形神社は、その名の通り馬の生産地に祀られたものですが、直接的には西隣の
         望月の牧にちなむものといわれています。ただし、望月の領主望月氏は滋野氏流で
         あり、小笠原氏支流の大井氏とは別族です。耳取大井氏が成立して以降は、塩名田
         の西の千曲川が両氏の境界であったと推測され、そのころには駒形神社と望月の牧
         の直接的な関係は断たれていたものと考えられます。大井氏の入植後、耳取と望月、
         そして大井宗家の拠点岩村田のちょうど中間にあたる駒形神社を大井氏が接収し、
         関所を兼ねた小規模な塁として改造したものではないかというのが、直感的な私個人
         の推測です。

          
 駒形神社全容。
南東隅の土塁。 
 同土塁を境内から。
南東隅土塁外側の堀。 
 堀から北に延びる生活道路。
 やはり堀跡か。
本殿裏の土塁。 
 本殿裏土塁とその北側斜面。
 切岸跡か。
旧中山道から駒形神社を望む。 


BACK