白金館(しろかね)
 別称  : 白金長者屋敷、白金城
 分類  : 平山城
 築城者: 柳下氏か
 遺構  : 土塁
 交通  : JR山手線目黒駅または地下鉄三田線・南北線
       白金台駅徒歩10分


       <沿革>
          応永年間(1394〜1428)に、柳下上総介という人物がこの地に館を築いたとされる。上総介は、
         のちに白金長者と呼ばれるほどの財を成したとされる。柳下氏と白金館に関しては、これ以上のこと
         は分かっていない。
          比定地周辺は、江戸時代に高松藩の下屋敷となった。明治維新後、屋敷の跡地は軍の火薬庫に
         使用され、戦後は国立自然教育園と東京都庭園美術館となっている。


       <手記>
          自然教育園内の舌状台地の1つが、白金館跡とされています。比定地にはコの字状に土塁が明確
         に残されています。案内板にも中世の館跡としっかり書かれているのですが、私はこれを中世白金館
         の遺構と判断するのは、いささか早計ではないかと感じています。
          このコの字型の土塁を館の中核とすると、内部に屋敷を築くにはあまりに狭く感じられます。長者と
         呼ばれるほどの有力者が、少なくともここに暮らしていたようには思えません。せいぜい、蔵を建てる
         くらいのスペースです。もしここに城館を築くとするなら、峰の縁に沿って土塁をめぐらし、頚部を堀で
         切るのがセオリーでしょう。
          私はむしろこの土塁は中世白金館の遺構ではなく、高松藩下屋敷時代の施設か、明治維新後の
         軍の管轄時代のものではないかと考えています。
          また、比定地の北側から東側にかけて、自然教育園をぐるりと囲う長大な土塁があります。園内の
         案内板では、この土塁も中世の城館遺構と紹介しています。しかし、この土塁に関しては『日本城郭
         大系』をはじめ、多くの城郭関連の著作でも疑問視されています。『大系』では、この土塁が城郭の
         目的上どのような意味をもつのか、説得的な説明や議論がなされていないという点を指摘しています。
          私としては、この土塁には崩壊を防ぐために樹木が植えられていたと案内板にあることから、やはり
         そもそも中世のものなのか、という点にひっかかっています。この土塁は、高松藩下屋敷の外郭線と
         一致していることから、防衛というより屋敷の境界として江戸時代に築かれたものと考えることもでき
         るのではないでしょうか。いずれにせよ、詳しい調査が行われなければ、白黒つくことはないでしょう。
          ちなみに自然教育園は、都心とは思えないほど自然に溢れた隔世的空間です。気分をリフレッシュ
         させたいときなどに、ふらっと訪れても良いと思います。

        ※追記
          城巡りとは別に東海道歩きで品川宿の無料休憩所に立ち寄ったところ、白金付近も含む品川周辺
         の戦前の地図が掲示されていました。下の3枚目の写真がそれですが、館跡の土塁があるとされる
         舌状台地上に4つの小さな方形の区画があり、土塁で囲まれている様子がしっかりと描き込まれて
         います。やはり、自然園で館跡としている土塁は近代の火薬庫のものと考えるのが妥当でしょう。

        ※追記2
          比定地から小谷戸を挟んだ北西の舌状台地は、字を「長者丸」というらしく今も駐在所やアパートの
         名称として残っています。その名前からして、長者屋敷との関連が考えられますが、伝承等について
         は不明です。丘も完全に宅地化されているので、地名の連想以外には何もいえません。
          ちなみに、長者丸には昭和初期のモダニズム建築の嚆矢である土浦亀城邸があります。

           
 館跡とされるコの字型の土塁。
自然教育園を取り囲む土塁。 
 近代の地図に書き込まれている館跡比定地の
 4つの小区画(中央上)。
字長者丸にある土浦亀城邸。 


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