獅子吼城(ししく)
 別称  : 浦の城、江草城、江草小屋
 分類  : 山城
 築城者: 江草信康か
 遺構  : 曲輪、石積み、堀、虎口、土塁
 交通  : JR中央本線韮崎駅よりバス
       「平」バス停下車徒歩20分

       <沿革>
           『甲斐国志』によれば、室町時代前期の甲斐守護武田信満の三男江草兵庫助信泰(信康)
          が拠ったとされる。他方、『巨摩郡江草村諸色名細帳』には、城主として「志田小太郎実高」
          の名が、『甲斐国古城跡志』には「波木井殿」が挙げられている。後者については、同書の
          谷戸城の項に「城主信田小太郎」とあることから、『日本城郭大系』では獅子吼城主と取り
          違えたものとみている。獅子吼城下にある見性寺の縁起には、元応二年(1320)五月四日
          に、「獅子頭の城」で討ち死にした信田小左衛門実正・小太郎実高父子の菩提を弔うため、
          武田信武(信満の曽祖父)が翌元享元年(1321)に建立したのがはじまりとされ、その後、
          一度建物が損壊したものを信泰が再興したとされる。
           信田氏について詳細は不明だが、同時代に同じく「実」を通字とする南部氏の庶流に、
          『甲斐国古城跡志』で獅子吼城主とされる波木井氏がある。したがって、信田氏も南部氏の
          一族とも考えられるが、確証はない。信田氏が実在したとすれば、同氏が獅子吼城の築城
          者であり、原因は不明だが同氏が断絶したために、信泰が遺領を継いだものと推測される。
           信泰が死ぬと、遺領は信泰の弟今井信景の子信経が継いだとされる。信経の子の信乂・
          信慶兄弟はそれぞれに家を興し、獅子吼城は信慶の居城となった。信慶の系統は浦殿と
          呼ばれたが、これは信乂の系統を「表」としたことに対するものともいわれる。
           応永十七年(1417)に、上杉禅秀の乱に加担した信満が追討を受けて自害すると、甲斐
          では国人衆の影響力が強まり、内乱状態が断続的に続いた。府中(表)今井氏が守護家
          に従順であったのに対し、浦今井氏はしばしば武田宗家に反抗を企てた。とくに、15世紀
          末に油川信恵の乱が起こると自立傾向を強め、信恵の甥信直(後の信虎)が宗家を継ぐと、
          信慶の子信是(浦兵庫)は叛意を明確にした。信恵は永正五年(1508)に信直に討ち取ら
          れたが、信是は今川氏や諏訪氏の支援を受けて抵抗を続けた。『高白斎日記』の翌永正
          六年(1509)十月二十三日の項に、「小尾弥十郎江草城ヲ乗取」とある。『大系』では、この
          江草城を獅子吼城とみなしているが、城乗っ取りの詳細については不明である。
           享禄四年(1531)三月、河原辺の戦いで信是の子信元ら反信虎連合軍は大敗し、国人
          衆による組織的な抵抗は潰えた。しかし、信元はなおも「浦ノ城(『妙法寺記』)」に籠って
          敵対を続けた。この浦城は獅子吼城を指すとされているが、異説もある。同年九月、信元
          は信虎に降伏した。一般的には、これをもって信虎の甲斐国内統一としている。
           天正十八年(1582)の天正壬午の乱に際し、北条勢が「江草小屋」に入ったが、これも
          獅子吼城を指すとされる。この間の、武田氏支配下の獅子吼城については不明であるが、
          「小屋」という表現から、城としては廃されていた可能性が考えられる。同年九月、徳川氏
          についた津金衆・小尾衆らの武田遺臣や、服部正成(半蔵)率いる伊賀組が獅子吼城に
          夜襲をかけ、落城させたとされる。獅子吼城の陥落は、北条氏にとって兵站が脅かされる
          ことを意味し、甲斐での徳川氏優位を決定づけたといわれる。同年十月に両氏の間で和議
          が結ばれ、獅子吼城は廃城となったものと思われる。


       <手記>
           獅子吼城山は、『大系』によれば「江草富士」とも呼ばれるということで、たしかに峰続き
          の東側を除けば、きれいな円錐形をしています。眼下の塩川の谷間には、かつて穂坂路
          と呼ばれる街道が走り、信州峠を越えて佐久へと通じていました。この穂坂路は、古くは
          重要な信州往還の1つだったそうで、この道を扼する獅子吼城は、相当な要衝であったと
          推測されます。この街道を完全に封鎖できてしまうという立ち位置が、浦今井氏の独立性
          の高さにつながったとしても不思議ではありません。
           現在、城跡へは尾根続きの東側の付け根まで新しく林道が作られており、そこから問題
          なく城内へ入ることができます。おそらく再後背の土橋だったと思われる道の付け根に、
          説明板が設置されています。
           細尾根沿いに、堀切や竪堀をいくつか越えると、大手口と思われる虎口に辿りつきます。
          大手道は、城山を北麓から山肌に沿ってぐるっと回ってこの大手口に至っているようで、
          今もその道筋は残っています。そして、この虎口は、せり出した土塁をさらにU字にカーブ
          して城内に進入するようになっており、獅子吼城でもっとも技巧的な縄張りとなっています。
           虎口を抜けると、先の土塁と山肌に挟まれた横堀状の空間をしばし進みます。そして、
          そこから先は頂上まで削平地群が続きます。獅子吼城の特徴は、なんといっても削平地
          群をびっしりと覆う石積みと削られた露岩です。この石積みは、削平の際に砕いた岩石を
          ただ積んだもののようで、(いわゆる裏込めをともなう)石垣ではないようです。とにかく岩を
          砕いてスペースを作ったという感じで、どこまでが削平地なのか不明瞭な場所も多々あり
          ます。
           頂上の主郭は、それまでの石林に比べればかなり広くきれいに整地された曲輪です。
          主郭の東端には、小さな祠と土壇があります。祠下には小規模な石垣が積まれています
          が、城内の石積みとは明らかに石質や積み方がことなるので、後世のものと思われます。
          土壇については、烽火台だった可能性も考えられますが、確かなことはいえません。主郭
          の西側下にも腰曲輪が続いており、やはり石積みや石の階段跡が見受けられます。
           さて、このように石積みが印象的な獅子吼城ですが、天正壬午の乱時に北条軍に岩を
          砕いてせっせと積んでいるような余裕があったとは考えにくいように思います。したがって、
          これを築いたのは、今井氏か武田氏ということになります。他方で、上述の通り、乱時の
          「江草小屋」という表現から、武田氏末期ごろまでには一度廃されていたのではないかと
          推測しています。すなわち、武田氏が佐久平を平定して信州峠に対する備えが必要なく
          なって以降、獅子吼城は一度役目を終えたのではないかと考えられるのです。
           余談ですが、この城がなぜ獅子吼城と呼ばれているのかが結局いまだにわかりません。
          同時代の史料にはみられず、地名にもない「獅子吼」という表現がどこからきたのか、謎と
          いわざるをえません。

           
 獅子吼城山遠望。
主郭のようす。 
 主郭東端の土壇と小祠。
主郭西側一段下の腰曲輪。 
 同曲輪の石積み。
主郭東側の腰曲輪と石積み。 
 同じく東側の石積み群。
同上。 
 同上。
横堀状の登城路。 
 大手口か。
 右手前から左手をU字カーブして中央土塁向こう側に抜ける。
 
竪堀。 
 尾根筋の堀切。
尾根続きの再後背の土橋跡の道路。 


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