谷戸城(やと)
 別称  : 茶臼山城
 分類  : 山城
 築城者: 逸見清光か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口、土橋
 交通  : JR中央本線長坂駅よりバス
       「城南」または「JA大泉支所前」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           甲斐源氏の祖源清光が築いたものと伝わる。清光は、甲斐入国当初は市河荘(市川三郷町)
          に拠ったが、その後逸見荘(北杜市)へ進出し、逸見氏を称した。清光の居所についてはいまだ
          定かでなく、谷戸城のほか若神子城や現在の長坂町内にあったとする説もある。『甲斐国志』
          では、谷戸城は詰城であり、平時の居館は別にあったと推測しているが、確証はない。
           『吾妻鏡』によれば、治承四年(1180)九月十五日、逸見光長・武田信義(双子といわれる)ら
          甲斐源氏一党は、「逸見山」に集結して源頼朝の挙兵に応じたとされる。この「逸見山」について、
          今日ではどこを指すのか詳らかでなく、谷戸城のことであるとする説も有力だが、確証はない。
           光長の曾孫義重は、承久三年(1221)の承久の乱の戦功により美濃国大桑郷を与えられて
          移り住み、甲斐源氏棟梁の座は信義流武田氏に渡った。信義の四男有義は、逸見氏を称して
          いるが、逸見荘に住してしたのか、またそうだとすればそれが谷戸城であったのかなどは不明
          である。有義は弟信光の讒訴によって失脚し、武田氏の家督は信光が継承した。これ以降、
          甲斐における逸見氏の動向についてはほとんど途絶えている。
           永正六年(1509)、獅子吼城主とされる今井信是が諏訪頼満に攻められて合戦となり、弟の
          矢戸源三郎信守が討ち死にしたとされる。矢戸氏が谷戸城主であった可能性も考えられるが、
          推測の域を出ない。今井氏は武田氏庶流とされるが、「逸見殿」とも敬称され、逸見氏の子孫
          とする説もある。
           谷戸城山の北西にある城向山道喜院は、天文三年(1534)に谷戸淡路守が開基したものと
          伝えられている。淡路守について、先の矢戸氏との関係や、谷戸城主であったのかなど詳細
          は明らかでない。
           『高白斎日記』の天文十七年(1548)九月六日の項には、信濃へ出陣する武田晴信(信玄)
          が「矢戸御陣所」を利用したとする記述があり、谷戸城を指すものとみられている。『日本城郭
          大系』では、戦国時代の谷戸城は深草館の詰城だったのではないかとする説を載せているが、
          推測の域を出るものではない。
           天正十年(1582)の天正壬午の乱に際し、北条氏直は若神子城に本陣を置いた。発掘調査
          によって、谷戸城には大規模な改修が加えられた形跡が認められており、谷戸城もこのときに
          北条方の拠点として取り立てられた可能性も考えられる。

          
       <手記>
           谷戸城は、八ヶ岳山麓の裾野にある独立丘に築かれています。上の地図には描かれていま
          せんが、両脇に東衣川と西衣側という小川が流れています。茶臼山とも呼ばれるこんもりとした
          城山は、大規模な発掘調査を経て公園化されています。加えて、大手前には「谷戸城ふるさと
          歴史館」という立派な郷土資料館も建てられています。
           唯一の地続きである歴史館前の大手には、堀切になっていたと思われる空堀が3分の1ほど
          残っています。大手堀の城内側には土塁が残り、その向こう側にもう1つ空堀があって二重堀
          となっています。
           城内ではもっとも緩やかな斜面となっている北東側には、細長い空堀と、やや離れてやはり
          細長く比較的低い土塁が巡っています。空堀は、東端で竪堀となって東衣川河岸へと落ちて
          います。曲輪を形成している訳ではないこの堀と土塁の役割はにわかには判断しにくいところ
          です。個人的な直感としては、これらこそが、谷戸城が天正壬午の乱に際して北条軍によって
          取り立てられた証拠ではないかと考えています。すなわち、防御はもちろんのこと、兵士の駐屯
          スペースを確保するのが目的で築かれたものではないかと推測されます。現地説明板では、
          同時に城兵が敵兵に覚られず移動するための工夫と考えているようです。
           北と東の尾根筋には、それぞれ四の郭と五の郭と呼ばれる曲輪があります。どちらも土塁等
          は設けられておらず、四の郭に至っては削平も完全ではないため曲輪の境が不明瞭です。
           山頂に、一の郭から三の郭までが集中しています。二の郭と三の郭は、後者の方が前者より
          やや低い位置にあるという以外は差がなく境も不明瞭で、両者を合わせて一の郭を輪郭式に
          ぐるりと囲む副郭とみることもできます。
           一の郭から三の郭までは、いずれも高い土塁に囲まれているものの、土塁の外側には堀が
          ありません(五の郭と二の郭の間だけには、例外的に横堀が設けられています)。その代わり、
          二の郭と三の郭の土塁の内側には、結構な深さの堀があります。これは、谷戸城でもっとも
          大きく、かつ奇妙な特徴の1つといえると思います。土塁の内側に堀を掘ってもあまり防御力の
          向上に寄与しているとは考えられません。このような配置は、管見の限り他には吉野ヶ里遺跡
          などの弥生時代の環濠集落ぐらいしかありません。とはいえ、弥生時代と同じ用途であったと
          は考えにくく、何のための堀であるのか判断に苦しみます。
           一の郭もまた、二の郭と高低差がない上に堀もなく土塁だけで仕切られた空間となっており、
          違和感を覚えます。独立した防御性はほとんどゼロに近いといえます。発掘の結果、一の郭は
          かなり山を削って作られていると考えられています。何のためにわざわざ山を低くして、二の郭
          からフラットに進入できるような構造にしているのか、こちらも理解に苦しみます。
           城山の北西麓、大手南西側には居館址とみられている六の郭があります。郭内はまるまる
          民家の敷地内なので踏査はできませんが、南端の土塁ははっきり見てとれます。その南には
          立派なモミの木のある丸山と城山の間に搦手口があります。丸山は出丸だったようで、削平地
          とみられる平場があります。丸山の南斜面は、現在は休耕している棚田があり、こちらも平場
          跡と思われますが、確証はありません。城山の南麓にも、城下塁と呼ばれる出城跡や方形館
          跡などがありますが、いずれも今は民家の敷地となっています。
           谷戸城については、若神子城などと同じく県北についてまわる源清光ゆかり伝説があります
          が、個人的には、若神子城よりは谷戸城の方が清光居住の可能性は高いように感じました。
          甲斐源氏がこの地方に着眼したのは、逸見荘が古代の官牧としてすでに開発されていたから
          といわれています。周辺の、信州望月郷や武蔵横山、下総などの著名な官牧と並べてみると、
          このあたりでは比較的川下の若神子よりは、八ヶ岳の裾野で穏やかな丘陵地帯の広がる谷戸
          城一帯の方が、営牧には適しているような気がするのです。付近には古代の遺跡も多く注目さ
          れているようですので、ぜひともこの方面でも実地研究が進んで欲しいところです。
           
 谷戸城址を望む。
大手の横堀。 
 大手横堀付属の土塁。
大手横堀に続く二重目の空堀。 
 北東斜面の空堀。
北東斜面から堀から続く東麓への竪堀。 
 北東斜面の土塁。上の空堀とは接していません。
五の郭跡。 
 四の郭跡。
二の郭と五の郭の間の横堀。 
 二の郭のようす。
 土塁の内側に堀があります。
一の郭を望む。 
 一の郭の虎口。
同上。こちらは喰い違いになっています。 
 三の郭のようす。
三の郭から南側への虎口と土橋。 
 南斜面の帯曲輪と三の郭の土塁。
六の郭の土塁。 
 搦手口。
搦手口脇の竪堀跡。 
 丸山の削平地。
丸山南斜面の棚田。連続削平地か。 
 谷戸城南方の眺望。
 中央の林は城下塁跡。


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