並木城(なみき)
 別称  : 戸室城、尻高城
 分類  : 平山城
 築城者: 尻高氏か
 遺構  : 曲輪跡
 交通  : JR吾妻線中之条駅よりバス
       「入沢口」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           尻高城主尻高氏の里城とされるが、詳細は定かでない。現地説明板には、論拠不明
          ながら応永十年(1404)の築城とある。これが事実とすれば、尻高氏初代とされる斎藤
          憲行の弟憲重ないしその子が築城主と推測される。


       <手記>
           並木城は尻高地区の西端近く、名久田川流域から少し登った緩やかな台地の傾斜地
          にあります。とくに東と南に対して高くなっていますが、居館程度のものだったと推測され
          ます。『日本城郭大系』で戸室城とされている城跡は、同じものを指しているものと思われ
          ます。
           現在、城域は民家の敷地となっています。西辺の生活道路脇に説明板と城址標柱が
          設置され、そこへ入る道路の角にも標識が建てられています。城内は2段ほどの曲輪が
          あるということですが、民家なので外観だけ眺めるにとどめました。
           北東1kmほどのところにある山城の尻高城に対する「里城」とされていますが、両者は
          いささか離れていて、いわゆる詰城と居館という直接的な関係にあったかは疑問の余地
          があろうかと思います。並木城の立地が尻高地域を治めるのにとくに優れているという
          訳でもなさそうですし、もっと山城に近いところに居館を設けない理由が見当たりません。
           この点、戦国時代には2つの尻高氏があったことが想起されます。すなわち、岩櫃斎藤
          氏庶流の尻高氏と、白井長尾景春の子景儀(重儀)にはじまるとされる長尾尻高氏です。
          両者の関係については定かではありませんが、もし並立している時期があったとすれば、
          並木城と尻高城にそれぞれの尻高氏が別々にあったとする見方もできるかと思われます。
          さらに、現地説明板が正しければ、在地領主の居館の趣のある並木城は斎藤尻高氏の
          居城で、尻高城は尻高景儀が新たに築いたものと考えると、一応の辻褄がつけられる
          ように思います。
           また、天正二年(1574)に尻高城が真田幸隆に攻め落とされた後の同十七年(1589)
          に、真田方の横尾八幡城を守って戦った将として尻高氏の名があります。尻高城尻高氏
          が滅んだ後も、一族が真田氏に仕え、その居所が並木城だったのではないかとも考える
          ことができ、想像ばかりが膨らみます。
           
 城址碑と説明板。
並木城址を西側から望む。 


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