尻高城(しったか) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 尻高氏 | |
遺構 : 曲輪跡、堀 | |
交通 : JR吾妻線中之条駅よりバス 「尻高」バス停下車徒歩30分 |
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<沿革> 応永八年(1401)、白井城主長尾重国によって築かれ、三男重儀が城主となって尻高氏 を称したとされる。現地説明板をはじめ多くの資料では重国を長尾景春に比定しているが、 景春は嘉吉三年(1443)の生まれである。白井城主に長尾重国という人物の存在は確認 できない。また、尻高にはもともと岩櫃斎藤氏庶流の尻高氏があったが、両者の関係に ついても定かでない。 戦国時代、武田氏の命を受けた真田氏が吾妻郡に侵攻すると、尻高氏は主家斎藤氏と ともに抗戦した。斎藤氏滅亡後も、尻高左馬介景家は抵抗を続けたが、元亀二年(1571) に降伏した。 しかし、天正二年(1574)に景家は上杉方に転じ、真田幸隆の攻撃を受けた。尻高城に 籠城した尻高勢は奮戦したものの、落城し景家は討ち死にした。 その後の尻高城については不明である。景家の子義隆は宮野城主となり、天正八年 (1580)に城を攻められ戦死した。他方で、同十七年(1589)に真田方の横尾八幡城が 北条氏に攻められた際の籠城勢のなかに、尻高氏の名がみえる。 <手記> 尻高城は、尻高集落背後にそびえる高い山の頂にあります。麓の集落の道路沿いに 石碑と説明板があるので、登城路を探すのに迷うことはないでしょう。登り始めから少々 キツい坂をずんずん上がっていくと、そのうちに堀切に当たります。一目でそれと分かる 堀なので、とりあえず城跡に来たことを実感できます。さらに登るともう1本堀切があるの ですが、そのほかは削平されているのか曖昧な地形が続きます。 東西に細長い山頂は堀切で2つの曲輪に分けられています。さすがに削平もきちんと されているようですが、いかんせん細いので収容人数は限られます。また峰続きの北西 尾根にも曲輪が数段認められます。 城跡であることははっきり分かるものの、規模は小さく技巧も単純で、おそらく真田氏が 攻め落とした後はそのまま廃城となったものと推測されます。 尻高城をめぐる論点としては、まず築城主とされる長尾重国と尻高重儀の位置づけが 問題となろうかと思います。素直に考えれば、@長尾景春が築いたもので、年代が誤って 伝わっているA白井長尾氏の一族に重国・重儀という人物がいて、応永八年に築いたか のどちらかの可能性が思い浮かびます。また、岩櫃斎藤氏庶流尻高氏との関係も気に なるところです。 第二の論点として、尻高城の「里城」とされる並木城が、詰城・居館の関係にあったと するには少々離れすぎているように感じられます。言い方を変えると、尻高城主の平時の 居館を並木城の場所に設ける理由が見当たらないということです。 これらの点から、個人的には斎藤氏流尻高氏が並木城を築いて居城とし、その後白井 長尾氏の一族が尻高城を築いたとするのがしっくりくるように感じます。戦国時代末期の 尻高城主尻高景家は、「景」の通字からやはり長尾氏流と考えるのが自然でしょう。ある いは、長尾尻高氏が斎藤流尻高氏に取って代わった可能性も考えられます。 |
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尻高城址碑。奥に説明板も見えます。 | |
登りはじめのあたりからの眺望。 右手奥に中之条市街が望めます。 |
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最初の堀切。 | |
その少し上の塚状の地形。 | |
2本目の堀切。 | |
削平地か。 | |
山頂西側の曲輪。 | |
北西尾根筋の曲輪群。 | |
山頂東側の曲輪先端付近。 | |
山頂の曲輪を分ける堀切。 |