笠島城(かさじま)
 別称  : 東山城、本島城
 分類  : 山城
 築城者: 香西家資か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : 本島港から徒歩25分


       <沿革>
           『吾妻鏡』の寛元四年(1246)の条に、藤原(香西)左衛門尉家資が幕命を受けて塩飽の海賊
          追捕を行ったとある。この功により香西氏は塩飽諸島に所領を得て、土着した子孫は吉田氏や
          宮本氏を称したとされる。ただし家資の系譜上の位置は定かでなく、『香西記』などでは香西氏
          2代・香西忠資ないし3代・資茂を祖としている。
           専称寺には江戸時代の年寄・吉田家の墓があり、今も笠島には吉田姓の家がみられること
          から、笠島城はこの吉田氏の詰城とも考えられるが、確証はない。貞和四/正平三年(1438)
          には、南朝方の伊予水軍衆である忽那氏が塩飽を攻撃し、その際の記録に「讃岐国塩飽之島
          追落城槨之処」とあり、この「城槨」とは笠島の城であると考えられている(『忽那家文書』)。
           吉田氏は代々彦左衛門を称して江戸時代まで続いているが、天正年間(1573〜92)の城主は
          福田又次郎であったと伝えられる。廃城の経緯については詳らかでない。


       <手記>
           笠島城は笠島の湊を北西に見下ろす小山の上にあります。集落側と南西の峠脇の2か所から
          登山道が延びていますが、前者からの登山口は分かりづらいところにあるので、峠脇から登って
          集落へ下りるのがおすすめです。下山途中には、笠島地区全体を俯瞰できる絶景ポイントもあり
          ます。
           また峠の反対側には、高階氏館跡とされる専修寺があります。館主の高階保遠は、鎌倉時代
          初頭に流罪とされた法然上人を温かく迎え、屋敷の前に草庵を設けたと伝えられています。境内
          には吉田家の墓もあるのですが、天正六年(1578)に専修寺が創建されたとき、草庵は荒廃して
          いたとされることから、仮に吉田氏が笠島城主であったとしても、その居館は高階氏の館跡には
          築かれなかったものと考えられます。
           笠島城は前後に堀切を設けた単郭の小城ですが、塩飽本島内では最も見ごたえのある城跡と
          いえるでしょう。とくに背後側の堀切は規模が大きく、また前方の空堀には土塁が伴っています。
          郭内にも土塁や突出部といった遺構が見られ、ある程度の広さもあるので、物見などの建造物も
          あったと推測されます。
           そもそも水軍衆は海を以て要害と成しているので、陸上の城にそこまでの防備は必要なかった
          のでしょう。笠島城の一番の存在意義は、笠島城からの視界に触れることなく瀬戸内を往来する
          ことが不可能である、という点にあると思われます。すなわち、塩飽諸島を挟んで東西に航行する
          船は、必ず一度は笠島城からの視界に入らなければなりません。

           
 笠島城跡を望む。
背後の堀切。 
 同上。
主郭南東隅の突出部。 
 郭内のようす。
主郭西辺の土塁。 
 前方下の空堀と土塁。
主郭前方の土橋状地形。 
 主郭前方下の空堀。
丘の先端付近に建つ説明板。 
 笠島集落のビューポイント。
笠島集落のようす。 


BACK