正法寺山荘(しょうぼうじ)
 別称  : 関氏正法寺山荘、羽黒城
 分類  : 平城
 築城者: 関盛貞
 遺構  : 土塁、堀、虎口、礎石、石塁跡
 交通  : JR関西本線関駅徒歩30分


       <沿革>
           永正二年(1505)、関盛貞(可似斎入道宗鉄)が正法寺を創建したことにはじまるとされる。
          『日本城郭大系』では、同寺を羽黒城の跡に建立されたものとしている。羽黒城は、関氏が
          小倉宮を擁して反乱を起こした北畠満雅に与同した際、正長二年(1429)に幕府軍によって
          攻め落とされたことが『満済准后日記』に記されている。
           『宗長日記』によれば、連歌師宗長が大永二年(1522)と同七年(1527)の2回にわたって、
          正法寺を訪れている。また、飛鳥井雅康が明応八年(1499)に富士へ赴いた際の紀行書で
          ある『富士歴覧記』にも記載があるとされる。
           関盛信の代の1570年ごろに、正法寺は廃寺となったと伝わる。跡地には小庵が営まれた
          ともいわれるが、それも江戸時代の初めまでには荒廃した。


       <手記>
           関の宿場町から小野川を遡って北上し、集落も終わった渓流部に、正法寺山荘跡があり
          ます。三方を川に囲まれた河岸の台地で、裏手から車道が通じていて駐車場もあります。
          すれ違い困難な道をうんとこ抜けると、何台もの先客がいてあら意外! そんなに有名な
          史跡だったかしらと思いきや、みなさん最後の紅葉を愛でに訪れているようでした笑
           そんな風流な方々を尻目に、我は一人下に目をやりうろうろ。広く平らな台地上に多くの
          低い土塁で囲まれた区画があります。中央に中心的な方形区画があり、ここに本堂などが
          置かれたのでしょう。復元と思われる石垣や石組みの水路跡などもあり、規模の大きさを
          うかがわせます。外縁にも低い土塁がめぐらされ、その東辺には虎口のような開口部や、
          石塁の痕跡のような石材が見られます。その先の川沿い一段下には、やはりなにかしらの
          施設跡とみられる削平地が広がっています。
           道路を少し歩いて引き返し、山荘跡裏手の尾根を南に下りると、堀切が2条見られます。
          おそらくかつては、背後はきっちり遮断して防備に充てていたのでしょう。とくに1条目は、
          堀底道状態になっていて裏手の通用口であった可能性も考えられます。とはいえ第一義的
          には別荘であり、そこまで実戦を意識したつくりではありません。戦国末期の盛信のころに
          廃されたというのも、その傍証でしょう。
           ちなみに、上述のとおり『大系』ではここを羽黒城の跡としています。羽黒の名は、山荘の
          背後に聳える羽黒山にちなんだものです。行ってはいませんが、かなりの岩山だそうで、
          中腹には権現神社が鎮座しています。南北朝時代が終わって30年という時代を考えると、
          羽黒城とは修験道や山岳寺院と結びついて、羽黒山に立て籠もったものとみるのが妥当な
          ような気がします。

 駐車場に建つ説明板。
山荘跡のようす。 
 区画土塁と石組み水路。
区画土塁。 
 外縁の土塁。
東辺の虎口状開口部。 
 東辺の石塁跡とみられる石材。
東辺外側の削平地。 
 石組み水路跡。
中心区画の石垣。 
 裏手尾根1条目の堀切。
同上。 
 2条目の堀切。


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