小代館(しょうだい)
 別称  : 岡ノ屋敷
 分類  : 平城
 築城者: 小代遠弘か
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : 東武東上線高坂駅徒歩15分


       <沿革>
           武蔵七党の1つ児玉党庶流小代氏の居館とされる。小代氏は、児玉弘行の子
          入西資行の次男遠弘にはじまる。久寿二年(1155)の大蔵合戦では、源義平が
          この地に館を構え、「岡ノ屋敷」と称されたとする伝承がある。
           遠弘の子行平は、源頼朝に従って源平合戦で武功を挙げ、越後国や安芸国の
          地頭職を与えられた。行平の跡は甥の俊平が継ぎ、俊平の子重俊は宝治元年
          (1247)の宝治合戦の功により肥後国野原荘の地頭職を得た。
           文永八年(1271)、重俊の子重泰は蒙古襲来に備えて幕府から肥後国下向を
          命じられた。残った重俊は、弘安の役が発生した弘安四年(1181)に没したが、
          同年の銘の刻まれた重俊の板石塔婆が今も館跡の青蓮寺境内に残っている。
          その碑文からは、元寇と遠国下向という事態に直面して、改めて一族の結束を
          図ろうとする姿が読み取れる。
           以後、小代氏は肥後国にそのまま根付き、武蔵国では動向がみられなくなる。
          館の存続期間は不明である。


       <手記>
           現在の地名でいう正代は、都幾川と九十九川の合流点に突き出た舌状台地
          地形を成しています。小代館があったのはその南辺の崖端とされ、青蓮寺境内
          を南西端とするほぼ方形の館であったとみられています。
           『日本城郭大系』によれば、本堂のすぐ西脇に西辺の堀跡があったようですが、
          現在は失われてしまっているようです。また、北辺の土塁が比較的残っていた
          ようにも描かれていますが、これも肝心の部分が宅地化され、東端付近(上の
          地図の真ん中の緑辺)にわずかに痕跡が見られる程度です。
           館跡の中心部と比定されるあたりを小字中形といい、その東には東形、西側
          には西形の小字があります。小字東形には、『大系』にもある通り城館のものか
          は不明ながら土塁状の地形が認められます。
           気になるのは、小字西形のメインロード沿いに見られる堀と土塁状地形です
          (地図の一番西側の緑辺)。これは『大系』には載っていないのですが、現在の
          中形や東形の遺構とされる箇所に比べるとよっぽど城館跡らしい造作を示して
          います。車でたまたま通りがかりに見つけて、慌てて降りて写真に収めました。
           小代館については、いくつかの館が散在していた可能性が指摘されています
          が、ほかにも探せば痕跡が見つかるかもしれません。そして、それだけの城館
          の併存を支えていたのは、今も青蓮寺の麓に豊かに湧き出ている湧水の恵み
          といえるでしょう。

           
 青蓮寺。
北辺東端付近の土塁痕跡。 
 小字東形の土塁状地形。
小字西形の土塁と堀跡状地形。 
 同上。
おまけ:青蓮寺下の湧水に遊ぶ魚たち。 


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