シュターデ
( Stade
 別称  : なし
 分類  : 都城
 築城者: 不明
 交通  : ハンブルク中央駅から快速鉄道REで50分
 地図  :(Google マップ

       <沿革>
           先史時代から周辺には定住者がいたとされる。650年ごろに、シュターデ旧市街南西4km
          ほどのグロース・トゥーンに堀で囲まれた「シュヴェーデンシャンツェ(Schwedenshanze/
          スウェーデンの塁壕の意)」と呼ばれている入植地が建設された。しかし、この城砦は何らか
          の理由により800年ごろに放棄され、今日のシュターデの場所に移転した。ここは、かつて
          エルベ氷河が削った谷の縁にあたり、シュヴィンゲ川を通じて小舟も着岸させられる水運と
          陸運双方に都合の良い土地であった。「シュターデ」とはそもそも、小舟を付けられるような
          大河の支流の河口近くの河岸を指す言葉で、現代のドイツ語にもゲシュターデ(Gestade/
          岸辺の意)という単語などとして残っている。
           994年にこの町はヴァイキングに略奪され、その際の記録に「Stethu(シュテートゥ)」の
          名でみられるのが史料上の初出とされる。
           1014ないし1016年、シュターデ南方のハルゼフェルトの領主ハインリヒ・デア・カーレの子
          ジークフリートは、シュターデに居城を移してシュターデ伯を称した。ジークフリートの曽孫
          ロタール・ウード3世が1106年に死去すると、唯一の男子であった当時4歳のハインリヒ4世
          が叔父ルドルフ1世の後見を受けて家督を継いだ。シュターデ伯の家士(ミニステリアーレ)
          であったフリードリヒはこれに対し、神聖ローマ皇帝に自由な地位を求めて訴え出た。彼は
          ノルトマルク辺境伯も兼ねていたウード3世からシュターデ伯領の管理の一切を任されて
          いたが、直接的にはシュターデ伯のレーエン(封地)封主ハンブルク・ブレーメン大司教区
          に仕える身分であった。また、彼の出自はイギリスで、船の難破によりシュターデに流れ
          着いてシュターデ伯の預かりとなったと伝えられる。
           フリードリヒとハインリヒ4世の争いは周辺を巻き込んで長く続き、ハインリヒ4世とルドルフ
          1世がシュターデに乗り込んでフリードリヒが一時落ち延びるといった一幕もあった。しかし、
          1124年にルドルフ1世が死去するとハインリヒ4世は後ろ盾を失い、フリードリヒがシュターデ
          の支配権を確立した。1128年にハインリヒ4世も亡くなり、フリードリヒは正式にハインリヒ
          5世としてハンブルク・ブレーメン司教からシュターデ伯に封じられた。
           ハインリヒ5世が1135年に没すると、ルドルフ1世の子でノルトマルク辺境伯を継いでいた
          ルドルフ2世が後釜に封じられ、再びシュターデ伯がジークフリートの系譜であるウード家
          (Udonen)に戻った。1144年にルドルフ2世が嗣子なく世を去ると、弟でブレーメン大聖堂
          参事会長だったハルトヴィヒ1世が封主たるブレーメン大司教区の名のもとに封地を継いだ
          が、これに対して今度はザクセン公ハインリヒ3世(獅子公)が世俗の権力者として継承権
          を唱えた。1148年にハルトヴィヒ1世がブレーメン大司教となると、その叙任権を巡る争い
          に発展し、これを獲得したハインリヒ獅子公のシュターデ領有が確定した。
           ここにウード家のシュターデ支配は終わりを告げたが、ハインリヒ獅子公も1180年に皇帝
          フリードリヒ1世に勢力を警戒されて帝国アハト刑に処され、シュターデを含む多くの領地を
          取り上げられた。1209年、皇帝オットー4世はシュターデに都市権を与え、ブレーメン大司教
          も1236年に追認するとともに通称・航行の優遇措置を認めた。シュターデは天然の良港と
          して発展し、同じころにハンザ同盟にも加わった。
           17世紀前半の三十年戦争を機に、シュターデの繁栄は急速に衰退に向かった。1625年
          にはデンマーク軍がシュターデに進駐し、1628年にはカトリック連盟のティリー伯ヨハン・
          セルクラエスに制圧された。その後スウェーデン軍に1636年まで占領され、1643年まで
          デンマークの影響下に置かれた後、1648年のヴェストファーレン条約までスウェーデンが
          再び支配した。
           条約により、シュターデはスウェーデンに属するブレーメン=フェルデン公爵領の主都と
          なった。1659年、大火により市街の大部分が焼失した。すぐに以前の町割りのまま復興
          されたが、旧来の建物は聖ヴィルハディ教会や聖コスマエ教会などごくわずかとなった。
           1675年にスコーネ戦争が勃発すると、神聖ローマ帝国およびデンマークの連合軍が
          公爵領に進攻し、ブレーメン=フェルデン戦役が始まった。開戦から1か月ほど経過した
          10月下旬の時点で、シュターデを除くほとんどのスウェーデンの拠点が攻め落とされた。
          11月初めにはシュターデへの攻撃が開始されたが、ブレーメン=フェルデン総督ヘンリク・
          ホルン以下6000名ほどの守備隊は、シュターデが堅固に要塞化されていたこともあり、
          冬の訪れまで持ちこたえることができた。連合軍がシュターデ包囲の兵を残して撤退する
          と、スウェーデン軍はシュターデから積極的に打って出て反撃に転じた。
           翌1676年4月から、連合軍によるシュターデ包囲戦が再開された。シュターデの補給は
          エルベ川・シュヴィンゲ川を通じた水運を通じて行われていたため、連合軍はこれを断つ
          ため、当時シュヴィンゲ川の河口にあったシュターデの支砦に猛攻を加えて陥落させた。
          補給路を失った守備兵は瞬く間に物資が枯渇し、また赤痢が流行したことから、約1か月
          後の8月13日にシュターデは降伏し、スウェーデン軍は撤退した。
           1679年のサン=ジェルマン=アン=レーの和約によりシュターデはスウェーデンに返還
          されたが、大北方戦争中の1712年にデンマーク軍によって攻め落とされた。1715年には
          ハノーファー選帝侯がブレーメン=フェルデン公爵領を購入し、スウェーデンも戦争末期の
          ストックホルム条約でこの契約を追認した。一連の戦争で、シュターデの港湾都市として
          の地位は大きく後退した。
           1803年にナポレオン戦争が始まると、シュターデはフランス軍に占領された。1814年の
          ウィーン会議で、シュターデは王国に昇格したハノーファーに返還された。1866年の普墺
          戦争によりハノーファー王国はプロイセン王国に吸収された。


       <手記>
           シュターデはハンブルクのエルベ川対岸西方に位置しています。今のシュヴィンデ川は
          ヨットや磯船程度ならちらほら浮かんでいますが、とても水運として使える規模ではあり
          ません。
           現在もハンザ都市を公称する歴史ある都市ではありますが、かつてハンブルクと並ぶ
          勢力を誇ったとは思えないほどこぢんまりとした地方の街です。そのことがかえって外郭
          の濠や稜堡の跡を、比較的良好に残す結果になったのでしょう。
           その代わり、旧市街の建物はほとんどが1659年の大火後の再建です。たとえば現存
          の市庁舎は1667年の築で、日本なら国宝級の歴史ある建物ですが、ドイツではフーン
          ( ´_ゝ`)といった感じです(笑)。最も古い建築物は、13世紀に都市として自立したころに
          造られた聖ヴィルハディ教会と聖コスマエ教会です。後者の方が年季を感じさせる外観
          で、私が訪れた時には修復工事が始まったばかりでした。
           旧市街北部に「ハンザ港」と名付けられた古い河岸があり、シュターデの観光の中心
          となっています。その北から西辺、そして南の駅へかけて、濠と稜堡跡が連なり、緑の
          公園や博物館などに転用されています。面積はさほど大きくないので、半日もあれば
          充分街全体を観光できるでしょう。
           シュターデの歴史をたどるとき、個人的に面白いと思ったのは、一時的とはいえ貴族
          でも何でもないよそ者のハインリヒ5世が、伯爵位を簒奪したという点です。これほどの
          下克上は、日本の戦国時代でもなかなか無いのではないでしょうか。芸術作品の題材
          としてもピッタリなエピソードのように感じました。
           ちなみに、市庁舎の地下には今も製造を行っているビール醸造所兼レストランがあり
          ます。やはりドイツでは役場の下がレストランというのは珍しくありませんが、おいしい
          ビールと港の料理が楽しめるのでおすすめのスポットです。
  
 濠と稜堡。
同上。 
 濠越しに旧市街と聖コスマエ教会の尖塔を望む。
公園となっている稜堡の1つ。 
 旧博物館として利用されている稜堡の1つ。
稜堡の土塁。 


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