シュタールエック城
(Burg Stahleck)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: ケルン大司教か
 交通  : Bacharach駅より徒歩10分
 地図 : (Google マップ


       <沿革>
           11世紀ごろ、ケルン大司教によって築かれたと考えられている。当時周辺はケルン大司教領で
          あったが、ケルンからは離れていたため、国境の哨戒や遠隔地統治を目的としていたとみられて
          いる。それまでの住民避難用の古式要塞(Fliehburg)と異なり、城将が配置され、築城当初から
          規模の大きい城であった。
           1135年には、記録として初めて現れる城主として、ゴスヴィン・フォン・シュタールエックの名が
          見える。ゴスヴィンの子のへルマンは、神聖ローマ帝国国王コンラート3世(戴冠はできなかった
          ため皇帝ではない)の姉妹を妻としていた。このため、コンラート3世からライン宮中伯の地位と
          封土を新たに与えられた。しかしこのとき、前々任のライン宮中伯オットー1世はコンラート3世に
          領地を召し上げられた形となった。そのため、オットーとヘルマンはプファルツ地方を巡って争う
          ようになった。
           1148年、オットー1世の子のオットー2世はヘルマンに捕らえられ、翌年にシェーンブルク城
          殺害された。1150年にはオットー1世も世を去り、その居城ラインエック城も、1151年にコンラート
          3世によって落とされた。これにより、両者の争いはヘルマン側の勝利で終結した。
           1156年にヘルマンが死去すると、皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ:赤髭王)は、異母弟の
          コンラート・フォン・ホーエンシュタウフェンにライン宮中伯の地位と遺領を与えた。フリードリヒ1世
          とコンラートは、ヘルマンの義理の甥にあたる。フリードリヒ1世はコンラートのプファルツ領を世襲
          領としたが、もともとシュタールエック城は選帝侯であるケルン大司教の封地であったため、両者
          の間に軋轢が生じることになった。
           1195年にコンラートが死ぬと、シュタールエック城をコンラートの娘アグネスが、ライン宮中伯を
          アグネスの夫ハインリヒが継いだ。ハインリヒは、アグネスの実家のホーエンシュタウフェン家と
          皇位を争った、ヴェルフェン家のハンリヒ獅子王の子である。この結婚は、ケルン大司教との争い
          を意識した政略的なものであった。2人は、シュタールエック城とバッハラッハの町を囲む城壁を
          築き、緊張状態に備えた。こうして、ライン宮中伯はホーエンシュタウフェン家からヴェルフェン家
          の世襲へと移ったが、ヴェルフェン家は2代で無嗣断絶となった。結局、1214年にヴィッテルス
          バッハ家のバイエルン大公オットー2世がライン宮中伯とシュタールエック城を受け継ぎ、その後
          550年以上にわたって同家が続いた。
           三十年戦争さなかの1620年、シュタールエック城とバッハラッハの町はスペインの名将スピノラ
          によって占領された。スペイン軍は、1632年にスウェーデン軍によって駆逐された。1635年には
          神聖ローマ帝国に次いでヴァイマール軍により、1640年にはバイエルンおよびスペイン、さらに
          1644年にはフランスによって城と町は攻囲され、著しく荒廃した。
           続くプファルツ継承戦争における1689年、シュタールエック城はフランス軍によって爆破され、
          塔や城壁が吹き飛んだ。1697年のレイスウェイク条約によりライン宮中伯領は回復されたが、
          1777年に最後の宮中伯カール・テオドールがバイエルン選帝侯を継承したことで、ライン宮中伯
          は吸収され消滅した。
           ナポレオン戦争が起こると、1801年のリュネヴィルの和約によってライン左岸はフランス領と
          なり、シュタールエック城は1804年にフランス政府によって売りに出された。1828年、プロイセン
          王国の皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が、ヴィッテルスバッハ家出身の妻エリーザベトの
          ためにシュタールエック城を買い戻した。城は翌年エリーザベトにプレゼントされたが、修復は
          なされず、登城路が整備されただけであった。それどころか、エリーザベトが訪城するにあたり、
          倒壊のおそれありとして城壁が撤去された。
           1909年には、「文化財保全と景観保護のためのライン協会(Rheinischer Verein für
          Denkmalpflege und Landschaftsschutz)」が城を買い取り、修復が始まった。工事は第一次
          世界大戦によって一時中断され、終戦後の1925年には、城内にユースホステルを建設する
          計画が採用された。ユースホステル建設と同時に城跡の修復も進められ、城壁や堀が復元
          された。工事はナチス政権下でも継続して行われ、ルドルフ・ヘスといったナチス高官も城を
          訪れている。第二次世界大戦中は、懲罰房や鍛錬用の兵営として使われた。
           戦後は再びユースホステルとして開業し、1965年からは、戦時中に中断されていた主塔の
          復興が再開された。この塔は1967年に完成し、現在に至っている。


       <手記>
           シュタールエック城は、ライン渓谷の町バッハラッハを見下ろす丘の峰先に築かれています。
          バッハラッハはライン川クルーズで立ち寄ったのですが、中近世の趣を残し、小さくこじんまりと
          した素敵な町です。
           あとで分かったのですが、シュタールエック城は高校世界史などでもおなじみの、プファルツ
          選帝侯の居城でした。知らずに来ると、城も町も小さくてのどかなので、とてもそんな権力者の
          城とは思えません。ヨーロッパの都市の大小が、人口に必ずしも依っていないことがよく分かり
          ます。
           シュタールエック城は、日本式でいえば山城にあたりますが、ドイツでは「Spornburg」という
          形式に分類されます。これは山の頂上ではなく、峰の中途に築かれた城という意味のようで、
          中世の要塞が山上に築かれるのは当たり前なのか、山のどこに建っているかが問題のよう
          です。たしかに、シュタールエック城は裾の斜面はわりと急ですが、峰の尾根は比較的緩やか
          で、その途中の適当な小尖峰に建物を建て、背面を大きな堀切で断ち切っています。
           現在も城はユースホステルとして営業中のため、建物の中を好き勝手に歩き回ることはでき
          ません。それでも、テラスから望むライン川と渓谷の眺めは最高です。
           城へは、町の案内に従えば、峰の先端から尾根伝いに登っていきます。しかし、もしこれが
          日本の城であれば、登りやすい尾根伝いに大手を開くわけがありません。そう思っていたら、
          城の北側の斜面に九十九折の小道があったので、試しに下りてみました。これはどうもビンゴ
          だったようで、道の途中に石造りの古い門が2、3建っていました。下りた先は町の入り口の
          惣門の前で、とても中近世らしい佇まいの家々が軒を連ねていました。
           バッハラッハはまた、ワインの集積地でもありました。今でも町のあちこちにワイン販売店や
          居酒屋が並んでいます。訪れる際には、プファルツの上品な甘さをもつ白ワインを賞味される
          と良いでしょう。

           
 シュタールエック城近望。
バッハラッハの街から城山を見上げる。 
 城の北側を下りたバッハラッハの町の入り口。 
 奥に町を囲う城壁が見えます。 
城山の中腹からバッハラッハの街を見下ろす。 


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