シュテレンベルク城 (Burg Sterrenberg) |
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別称 : なし | |
分類 : 山城(Höhenburg) | |
築城者: 不詳 | |
交通 : カンプ・ボルンホーフェン駅前より送迎有り | |
地図 : (Google マップ) | |
<沿革> 10世紀後半から11世紀前半の間には、すでに城は築かれていたといわれる。正確な築城年代は いまだ明らかではないが、ライン渓谷で最も古い城の1つといわれている。 1190 年、ボーランデン伯ヴェルナー2世がこの城を築き直し、「シュテレンベルク城」と名付けたと される。ただ、それまでの城名については定かでない。13世紀末まで、ボーランデン伯の徴税用の 城として使用された。1249年には、神聖ローマ帝国の対立王ヴィルヘルム・フォン・ホラントによって 攻められたといわれる。 1290年、ボーランデン伯ヴェルナー4世と対立した義理の甥のアルブレヒト・フォン・レーヴェンシュ タインは、シュテレンベルク城の支郭を改築してリーベンシュタイン城を築いた。1295年、シュテレン ベルク城は近隣領主のカッツェネルンボーゲン伯ないしシュポーンハイム伯の抵当に入れられた。 14世紀初頭には、城はトリーア大司教バルドゥーイン・フォン・ルクセンブルクの所有に帰した。他方 で、リーベンシュタイン城はボーランデン家の流れを汲むリーベンシュタイン家らの共有相続の城と なったため、トリーア大司教は14世紀半ばごろに、城のリーベンシュタイン側に新たな城壁を築いて 対抗した。 しかし、15世紀に入るとシュテレンベルク城の戦略的価値は徐々に薄れ、1568年には無人の城と なり、その後は朽ちるに任せていった。領主が替わるごとに所有者も替わったが、城は廃墟のまま 修復されることはなかった。 第二次世界大戦後はラインラント=プファルツ州の管理するところとなり、1968年から1978年に かけて修復工事が行われた。 <手記> 日本でいえば、主郭と出丸くらいに近接しているシュテレンベルク城とリーベンシュタイン城には、 「反目する兄弟(Feindliche Brüder)」という伝説があります。いろいろなバリエーションがあるらしい のですが、おおよそ共通しているのは、①とある兄弟が1人の女性を好きになる。②恋敵となった 兄弟はそれぞれが隣接して城を築き、敵対する。③原因はさまざまだが、最後には相打ちになり、 どちらの城も無主の城となる。というものです。 実際には、2つの城が直接の戦闘状態に陥ったことはないそうですので、伝説はあくまで伝説の ようです。トリーア大司教がリーベンシュタイン側に高い城壁(通称「争いの壁(Streitmauer)」)を 設けたことや、リーベンシュタイン(直訳すると「愛の城」)という城名、そして詩人ハイネが「二人の 兄弟」という詩のモチーフとしたことから、まことしやかに語られるようになったのでしょう。 リーベンシュタイン城とは対照的にいくらか修築が施されていて、今もカフェやレストラン、ホテルと して営業しています。ただ、逆に旧来の部分と真っ白い新築の塔が微妙にちぐはぐな感もあります。 |
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シュテレンベルク城(左)とリーベンシュタイン城(右)。 |