吹田城(すいた)
 別称  : 水田城、石浦城、西庄城
 分類  : 平城ないし平山城
 築城者: 吹田氏か
 遺構  : なし
 交通  : JR京都線または阪急千里線吹田駅
      徒歩5分


       <沿革>
           『日本城郭大系』によれば、建武三年(1336)に安芸国の周防次郎四郎親家が摂津国
          「水田城」を攻めて勝利したとあるのが初出とされる(『大日本古文書』「吉川家文書」)。
          ただし、城主や築城の経緯などについては不明である。
           『摂津志』によれば、永享年間(1429〜41)には吹田河内守重通が吹田に拠っており、
          このころまでには在地領主吹田氏が成立していたことになる。また、寛正二年(1461)の
          『崇禅寺田園目録』には「石浦城」と「西庄城」の2城として記載がある。
           文明十四年(1482)、摂津守護細川政元に抵抗した摂津国人一揆に吹田氏も加わり、
          守護代薬師寺元長に城を逐われた。後に旧領に復したようで、両細川の乱さなかの大永
          六年(1526)、細川高国方の池田城を細川晴元方が攻め取ろうと挙兵した際、吹田氏も
          同調して吹田城付近に布陣した。しかし、高国方の伊勢神戸衆・伊丹衆に攻められ、当時
          まだ16歳の美童であったとされる吹田氏は討ち死にした(『足利季世記』)。
           この後の吹田氏および吹田城については詳らかでないが、1570年代には荒木村重の
          異母弟ないし叔父とされる村氏が吹田氏を称している。荒木氏の勢力拡大に伴い吹田氏
          の家名を吸収・継承したとみられるが、その居城は安威川沿いの神境寺内にあったとも
          いわれ、やはり吹田城の動静は定かでない。


       <手記>
           吹田城は今も所在がはっきりせず、市街地で散発的に行われた発掘調査でもまったく
          手がかりすら見つかっていないそうです。字名などによる推定地は少なくとも3か所あり、
          1つは片山公園からアサヒビール工場(西の庄町)にかけて、もう1つは吹田第一小学校
          の北側、そして吹田第三小学校の北西とされています。いずれも遺構はなく、私は前二者
          を訪ねました。
           片山公園は千里丘陵末端の小ピークにあり、推定地の中で唯一山上にあります。頂部
          には忠魂碑が建ち、周辺も公園化されていて旧地形の把握も困難です。ビール工場から
          第一小学校方面はそこから舌状に緩やかに伸びる沖積地形で、工場東端付近に「水田」
          ないし「しいた」の小字があったそうです。
           第一小学校北側の推定地は住宅街となっていて、北東隅の欠けた矩形に近い区画が
          細道となって残っています。この付近を字「土井」といったそうで、土居に通じる城郭関連
          地名と推測されています。
           吹田第三小学校付近は小字を「城ヶ前」といい、推定地とされるその北西一帯は小字を
          「高畑」というそうです。亀岡街道が字高畑の東辺から南辺を通り、西辺には小さな池が
          あったということから、城館跡候補地に挙げられています。
           荒木村重の時代まで存在したことはほぼ間違いなく、交通の要地でもあったのでどこか
          にはあったのだと思いますが、現状では幻の城郭といえるでしょう。

 片山公園を望む。
片山公園頂部の忠魂碑。 
 頂部背後の斜面。
吹田第一小学校北辺の道路。 
推定地の1つの南辺にあたります。 
 同推定地の北辺道路。


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