池田城(いけだ) | |
別称 : 中嶋城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 池田教依 | |
遺構 : 堀、土塁跡、井戸跡、虎口跡 | |
交通 : 阪急宝塚本線池田駅徒歩15分 | |
<沿革> 摂津の大身領主池田氏の居城である。池田氏は美濃国池田荘を領した紀姓池田氏を祖とすると される。11世紀末に、源頼政の弟仲政の四男泰政が養子となり、その子泰光が源頼朝から摂津国 豊島郡の地頭職を得て、泰光の孫娘の婿にあたる尾藤時景が同郡を継承したと伝わる。池田城を 築いたのは、時景の孫の教依とされる。教依は、楠木正行の遺児教正を引き取り、養育して後継ぎ とした。 池田氏は15世紀中ごろに高利貸しなどによって富を蓄え、京の公家の間でも「富貴栄華の家」や 「富貴無双」などと称された。嘉吉三年(1443)には池田城の改修を行い、屋敷町などを増設したと される。 応仁の乱さなかの文明元年(1469)、池田城は西軍の大内政弘に攻め落とされた。しかし、池田 充正はまもなく城を回復し、むしろその後に勢力を拡大したとされる。 永正五年(1508)、細川政元暗殺後の権力闘争に絡み、澄元派であった池田氏は高国派の細川 尹賢らに攻め込まれた。池田城では激しい攻防戦が行われたとされるが、池田貞正は子の信正を 逃がしたのち、城に火を放って自害した。 永正十六年(1519)に澄元と阿波の三好之長が摂津へ攻め上った際、信正も呼応して功を立て、 再び豊島郡を与えられた。享禄四年(1531)には、高国派の浦上村宗に池田城を攻め落とされた。 しかし、続く大物崩れで村宗の名目上の主君である赤松政村が寝返り、村宗と高国を敗死させると、 信正も池田城を回復した。この後、池田城は大きく改修されたといわれる。天文二年(1533)には、 一向一揆により淡路に逃れていた澄元の子晴元が、池田城に入り摂津での巻き返しを図っている。 永禄十一年(1568)に織田信長が上洛すると、池田勝正は三好三人衆とともに信長に抵抗した。 勝正は信正の子長正の子とも、一族からの養子ともいわれる。池田城に籠城して抗戦したものの、 敗れて降伏したが、信長からは罰せられるどころかむしろ評価され、いわゆる摂津三守護の1人と して遇された。 しかし、元亀元年(1570)に弟の知正や重臣荒木村重らがクーデターを起こし、勝正は追放された。 池田氏の家督は知正が継いだが、その知正も元亀四年(1573)に村重の下克上に遭い、城を逐わ れた。翌四年(1574)、村重は伊丹城(有岡城)を攻め落として新たな居城とした。このときまでに、 知正は村重の家臣となり荒木久左衛門を名乗っていたが、村重から改めて池田城主に任じられた ともいわれる。 天正六年(1578)、村重は信長に謀叛し、有岡城はじめ高槻城、茨木城、花隈城などに兵を配置 しているが、そのなかに池田城の名は見られない。織田氏の討伐軍が「古池田」に着陣している ことからも、村重の乱時点で、すでに廃城となっていた可能性も考えられる。いずれにせよ池田城 は、翌七年(1579)に有岡城が落城するまで討伐軍の拠点となり、信長も何度か訪れている。遅く とも、村重の乱の鎮圧を受けて廃されたものと推測される。 <手記> 池田市街を見下ろす舌状の台地先端部を利用した城で、本丸部分が城跡公園として整備されて います。櫓風の展望台や池泉回遊式庭園が印象的な美しい公園なのですが、史跡保存について はどこまで顧みられているのか、やや疑問です。園内には、土塁や虎口と書かれた箇所があるの ですが、どれを指しているのか、私から見てもよく分からない感じでした。 確実に城の遺構といえるのは、公園東側の堀切です。こちらも公園に通じる道が作られていて、 往時そのままの雰囲気とまではいきませんが、幅も深さもある堀切の様子が見て取れます。 繰り返すようですが、公園としては素晴らしく、池泉も芝生もとてもきれいに整えられています。 私が訪れたときには、浴衣姿のイスラームの女性たちが小さな子供を連れてグループで集まって いて、写真撮影を頼まれるという一幕もありました。ちなみに、火曜は休園日のようなのでご注意 ください。 |
|
池田城跡公園の模擬櫓と池泉回遊式庭園。 | |
模擬櫓を見上げる。 | |
模擬櫓からの眺望。 | |
模擬櫓から本丸跡を見渡す。 | |
本丸の礎石跡。 | |
同じく井戸跡。 | |
土塁跡。 | |
虎口跡。 | |
枯山水(復元) | |
排水溝(復元)。 | |
模擬大手門。 | |
堀切。 | |
同上。 |