真田氏館(さなだし) | |
別称 : 真田氏屋敷、真田隠岐守宅 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 真田信尹 | |
遺構 : 土塁、堀跡 | |
交通 : JR中央本線韮崎駅よりバス 「新橋」バス停下車 |
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<沿革> 真田隠岐守信尹の屋敷跡とされる。信尹は真田幸隆の四男で、武田氏の滅亡後は 徳川家康に仕えた(一時期徳川家を出奔して浪人していた)。 旧明野村教育委員会による屋代氏居館跡の説明板によれば、慶長十九年(1614)に 巨摩郡1万5千石を信尹と屋代勝永、三枝昌吉の3人で分割したとされる。他方、『日本 城郭大系』によれば、慶長六年(1601)の検地記録に、「真田隠岐守」の知行が郡内に 計上されているとされる。なお、屋代・三枝両氏は後に徳川忠長の附家老となり、忠長 が改易となると両氏も所領を没収されているが、信尹流真田氏は旗本として続いている。 他方で、信尹が武田家臣であった頃に、すでに大蔵を領していた可能性も否定はでき ない。信尹は、武田信玄の命により甲斐の旧族加津野氏の名跡を継いでおり、真田家 とは別に甲斐国内に所領を与えられていたとしても不思議ではないが、確証はない。 <手記> 真田氏館は、須玉川の河岸段丘上に位置しています。館の東には、より高い塩川の 河岸段丘の細尾根が南北に延びています。川と峰に挟まれた河岸段丘上という立地は、 塩川の対岸にある屋代氏館と非常によく似た選地となっています。 現在、館の西辺と思われる堀と土塁の跡が残っています。堀跡は水路や畑地となって おり、当時から灌漑用水が引かれていたものと思われます。南西隅付近の土塁は藪化 していますが、もっともよく残っている箇所です。屋敷側とみられる藪の東脇には、数基 の小さな墓石や祠が並んでいます。 近くで畑作をなさっていた方に伺ったところ、近年までそこには土塁の持ち主の民家が あったということで、墓碑なども屋敷にちなんだものだということです。ただ、その民家を はじめ集落内の主だった旧家はみな土屋姓を名乗っていて、真田姓はいないとのこと。 土屋氏といえば、やはり武田家臣から徳川家臣に転じた一族として知られていますが、 真田氏館との関連は不明です。 『大系』によれば、かつては北辺の土塁も残っていたそうですが、こちらは今では失わ れているようです。また同書では、真田氏館は方形の曲輪を2つ東西に並べた構造で あったと推測していますが、現地を訪れた感触や、東西方向の土塁よりも南北方向の 土塁が長かったということから、曲輪の並びは南北の誤りではないかと思われます。 おそらく、少林寺に西接していたものと考えられます。 |
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西辺の土塁と堀跡。 | |
土塁南西隅屋敷側のようす。 | |
西辺の堀と土塁跡。 | |
北辺の土塁・堀跡の名残か。 |