屋代氏館(やしろし) | |
別称 : 屋代氏屋敷 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 屋代勝永 | |
遺構 : 土塁 | |
交通 : JR中央本線韮崎駅よりバス 「浅尾」バス停下車徒歩15分 |
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<沿革> 屋代越中守勝永(秀正)の屋敷跡とされる。屋代氏は信濃国更級郡の豪族であったが、 勝永の伯父正国の代に武田氏の家臣となり、天正十年(1582)の武田氏滅亡と本能寺の 変の後は徳川家に仕えた。徳川家康が関東に移封となった同十八年(1590)までの間に、 すでに一度神取村を領していた可能性も考えられるが、詳細は不明である。 現地の説明板によれば、慶長十九年(1614)に、巨摩郡を勝永と真田信尹、三枝昌吉 の3人で分割し、このときに上神取に屋敷を築いたとされる。他方、『日本城郭大系』に よれば、慶長六年(1601)の検地記録に、「屋代越中守」の知行分として神取村をはじめ 郡内6千余石が計上されているとされる。いずれにせよ、関ヶ原の戦い以降に入部した ものとみるのが妥当と思われる。 勝永は、徳川忠長の附家老となり、小諸城代を務めた。しかし、勝永の子忠正の代の 寛永九年(1632)に忠長は改易処分となり、屋代氏も所領を失った。忠正は後に安房 国内で1万石の大名として復帰しているが、甲斐の所領は戻らなかったものとみられる。 したがって、屋代氏の屋敷は寛永九年時点で廃されたものと推測される。 <手記> 屋代氏館は、塩川の河岸段丘上に位置しています。館の東には、もう1段河岸段丘が あり、川と峰に挟まれた台地上という立地は、塩川の対岸にある真田氏館と非常によく 似た選地となっています。 現在、館の西辺の土塁の一部が残っています。あくまで土塁の断片ですが、旧明野村 の史跡に指定されていたということで、保存状態は良好です。また、真田氏や三枝氏の 館跡にはない説明板も設置されています。かつては、地割に屋敷跡の外縁をみることが できたそうですが、近年土地改良が行われたようで、土塁のほかに屋敷跡を偲ぶものは 見受けられません。 |
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土塁を南西側から望む。 | |
同じく北東側から。 |