鈴木喜左衛門陣屋(すずききざえもん)
 別称  : 鈴木喜左衛門重成陣屋、諏訪城
 分類  : 平城
 築城者: 鈴木喜左衛門重成
 遺構  : なし
 交通  : 小田急線本厚木駅よりバス
       「上六倉」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           旗本鈴木喜左衛門重成の陣屋とされる。重成は慶安年間(1648〜51)から寛文年間(16
          61〜72)にかけて六倉の代官を務め、中津原台地の開拓に尽力したとされる。『新編相模
          国風土記稿』によれば、陣屋は元禄年間(1688〜1704)に廃された。
           鈴木氏については、地元六倉の土豪出身とされる。『日本城郭大系』によれば、陣屋跡の
          北西700mほどのところにある諏訪神社の明応元年(1492)の棟札に鈴木兵部の名があり、
          喜左衛門の先祖ではないかと推測している。また、『大系』には付近に「諏訪城」の伝承が
          残るともあるが、詳細は不明である。


       <手記>
           上の地図中の緑点のあたりに説明板が設置されていて、そこには陣屋中心部の番地が
          記されています。その番地は、図中の緑丸一帯になるそうです。見て分かるとおり、中津原
          台地の河岸からはいくぶん奥まったところにあったようで、完全に代官の行政施設であった
          ものと推測されます。
           喜左衛門の先祖として在地領主の鈴木氏があり、その居所が諏訪城と呼ばれていたと
          すると、陣屋一帯は要害性もなく、また中津原台地は長らく不毛の地とされていたことから、
          陣屋とは別の場所にあったものと考えられます。
           陣屋跡の北東、久昌寺の麓には殿沢の小字が残っています。その先には六倉の渡し場
          があったとされています。今でも相模川の氾濫原には水田がそこかしこにみられ、中世の
          六倉の中心部はこのあたりにあったものと考えられます。殿沢の上に位置する久昌寺は、
          河岸の中腹にあって眺望が利き、在地領主の居館が設けられていてもおかしくはないよう
          に思われます。確証はないのであくまで推理の域を出ませんが、中世鈴木氏の居跡として、
          もう少し六倉に注目が集まっても良いように感じました。

           
 陣屋跡説明板。
六倉の河岸上からの眺望。 
画面中央に久昌寺。 
 


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