首里城(しゅり)
 別称  : 御城
 分類  : 平山城
 築城者: 不詳
 遺構  : 石垣
 交通  : 沖縄都市モノレール首里駅徒歩5分


       <沿革>
           首里城の創建時期は定かでない。発掘調査では、14世紀末ごろとされる遺構が
          最古のものである。早ければ、13世紀の三山時代には存在していたと推測されて
          いる。
           1406年、佐敷按司(現南城市)の尚巴志は、浦添城を居城とする中山王武寧を
          攻め滅ぼし、父の尚思紹を中山王位に就けた。そして、中山王国の都を浦添から
          首里に遷したとするのが、首里城が史料に現れる最初のものとされる。尚巴志は
          首里城を拡充すると同時に那覇の港を整備し、現在まで続く沖縄本島の中心都市
          としての基礎を築いた。父思紹が没すると中山王を継ぎ、1416年には北山王を、
          1429年には南山王を滅ぼし、ついに琉球本島の統一を達成した。
           1453年、第5代尚金福王が死去すると、子の志魯と弟の布里が王位をめぐって
          争った(志魯・布里の乱)。この争乱で首里城は灰燼に帰したとされ、志魯は死に、
          布里も首里を追われ、布里の弟の尚泰久が王となった。首里城は、乱から3年後
          の1456年までには再建されていたことが、李氏朝鮮の記録である『李朝実録』に
          みられる。
           1469年、尚泰久の子尚徳王が死去すると、その世子ではなく重臣の金丸(かな
          まる)が王位を継承した。金丸は伊是名島の里主の子とされ、尚泰久王に仕えて
          領主層にまで取り立てられていた。諸史書によれば、尚徳王は悪政を重ねて人心
          の離反を招き、金丸は群臣に推戴されてやむなく王位に就いたことになっているが、
          実際の経緯については定かでない。即位後の金丸は尚円王を称したため、一般に
          尚巴志王の系統を第一尚氏、尚円王以降を第二尚氏と呼ぶ。
           以後、1945年の沖縄戦に際して5月27日に焼失するまで、首里城が戦火を経験
          することはなかった。ただし江戸時代の1660年と1709年の2度、首里城は火災に
          見舞われ建物の多くを失った。1992年以降復元が進んでいる首里城の建造物は、
          最後の3度目に再建された姿を元にしている。
 

      <手記>
           首里城を初めて訪ねて思ったのは、那覇市街中心部から結構離れているうえに、
          高いところにあるということです。主城域は海抜120m超ということなので、比高は
          100m以上あることになります。とりたてて要害性に優れているとも、交通の要衝
          というようにも見えず、尚巴志がなぜここを居城と定めたのかその理由がちょっと
          気になります。
           那覇市の主要観光名所にもかかわらず、首里城へ向かうバスは驚くほど本数が
          少ないです。公共交通機関で行くなら、「ゆいレール」に乗って首里駅で降りるのが
          おすすめです。首里駅は首里城の背後に位置し、徒歩5分ほどでわりとフラットに
          主城域に入ることができます。にもかかわらず、こちらのルートにはほとんど観光客
          の姿が見えませんでした。みなさんツアーの観光バスか観光タクシーを使っている
          ということでしょうか。少々不思議に思いました。
           首里城の建物は、昔からある守礼門を含めてすべて復元です。沖縄戦の戦場と
          なったわけですから石垣も大きく損傷を受けたのでしょう、綺麗に修復された箇所
          が多く見受けられます。正殿なども、発掘調査で検出された遺構を埋め戻し、その
          上に建てられています。私の訪れた時は、正殿など中央政庁群が改修中でした。
          正殿および周囲の建物のなかでとくに面白いと感じたのは、奥書院の存在です。
          琉球王の生活空間にこんなに見慣れた書院造の部屋があるとは、私にはかなり
          意外でした。中国と日本と、どちらとも上手に付き合っていかなければならないと
          いう、琉球王国支配層の処世感が垣間見えた気がしました。
           首里城の構造で興味深いのは、正殿のある主郭ではなく、その脇の「京の内」
          という曲輪が最高所であるという点です。京の内は聞得大君(きこえおおきみ)を
          最高位とする神官女たちが祈りを捧げる場所だったということで、琉球王国の王権
          が宗教的権威に大きく依拠していたことを示しています。ここも、最高所ということ
          で眺めが良かったり、正殿を斜め上から俯瞰できたりとなかなかの見どころなの
          なのですが、メインルートではないということで観光客はほとんどいませんでした。
           眺望ポイントとしてより整備されているのは「西(いり)のアザナ」と呼ばれる物見
          台です。ここからは、那覇の街も海も手に取るように見渡せます。正殿背後にある、
          「御内原(うーちばる)」と呼ばれる国王一家の私的なエリアも、まだ整備中でした
          が、その下の曲輪は見晴らしも良く見ごたえがありました。
           全体的にみて、首里城は当然ながら琉球国王の威厳に見合う規模をもった王城
          であるといえます。また、その縄張りは儀礼的・政治的な意味合いをもった部分が
          多く、戦うための城という意識があまり感じられないのも特徴です。当時、那覇港
          に着く船からは、山上の首里城はさぞ威容ある姿に見えたことでしょう。神の加護
          と貿易に依って立つ琉球王国にとって、比較的高いところにあって港からの見栄え
          が良いという点が、首里城の最大の存在意義だったのではないかと思いました。

           
 正殿。
北殿。 
 南殿。
奥書院。 
 奥書院の一室。
「おせんみこちゃ!」。 
このネタが分かる人はたぶん同世代ですね(笑)。 
正殿内の遥拝室です。 
 正殿内の御座所「御差床(うさすか)」。
正殿跡地下遺構のディスプレイ。 
 京の内の門。
京の内の石垣。 
 京の内から正殿を俯瞰。
西のアザナから那覇市街方面の眺望。 
 西のアザナの石垣を外側から。
主郭東側通用門の木曳門。 
 御内原へ入る淑順門。
御内原下の曲輪。 
 御内原下の曲輪のようす。
漏刻門。 
 瑞泉門(右)と漏刻門(左奥)。
瑞泉門下の湧水「龍樋」。 
注ぎ口の龍の彫刻は1523年に中国から贈られたもの。 
 久慶門。
歓会門。 
 首里駅からのルート沿いに伸びる石垣。
園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)。 
世界遺産の構成資産です。 
 守礼門。
 昭和三十三年(1958)の復元。
首里城の石垣の隅はところどころ、 
こんな感じに出っ張っているのが気になりました。 


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