浦添城(うらそえ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 舜天か
 遺構  : 石垣、陵墓
 交通  : ゆいレール浦添前田駅徒歩10分


       <沿革>
           琉球の史書によれば、舜天王統を開いた舜天(しゅんてん)の居城とされる。
          『中山世譜』などによれば、舜天は伊豆大島から逃れてきた源頼朝らの叔父の
          源為朝と、大里按司の妹との間にできた子とされる。ただし一般には、為朝は
          嘉応二年(1170)に追討を受けて自害したとされている。舜天は成長して浦添
          按司となり、伝説上の琉球王天孫氏を首里城に滅ぼした利勇を1187年に討ち、
          琉球国中山王となった。しかし、一次史料からは舜天の実在を確認することは
          できていない。
           舜天の後は舜馬順煕、義本と続いたが、1259年に簒奪あるいは禅譲により
          王位は英祖に移った。英祖は天孫氏の子孫で、伊祖城主の子とされるが定か
          でない。浦添城には英祖が築いたと伝わる陵墓「浦添ようどれ」があり、発掘
          調査の結果と史料にある造営年に齟齬がないことから、英祖については実在
          の人物とみられている。したがって、遅くとも浦添城は英祖のころまでに築かれ
          たことになる。
           1350年に英祖王統5代目の西威が死ぬと、群臣は浦添按司の察度(さっと)
          を次の中山王とした。察度は浦添間切謝名の奥間大親と天女の間の子とする
          伝説をもち、勝連城主勝連按司の娘を娶って身を興したとされる。
           察度の子武寧は、1406年に佐敷按司の尚巴志に攻められて没落した。父の
          尚思紹を中山王に就けた尚巴志は、居城を首里に遷した。尚巴志は浦添よう
          どれを修築したものの、城自体は荒廃していったとされる。
 

      <手記>
           浦添城は、牧港川が深く削った段丘上にあり、南西は比較的緩やかな斜面
          となっているのに対し、川のある北東側は断崖となっています。川を下った先の
          牧港は琉球で古くから貿易港だったということで、港からちょうど遠くに見上げる
          場所にあることが重要だったと思われます。この位置関係は、那覇港と首里城
          にも共通しているといえます。
           城山は太平洋戦争の沖縄戦で激戦地となったため、戦闘や日本軍による壕
          建設によりほとんど破壊されています。北側斜面の浦添ようどれが修復された
          ほかは、発掘調査も進んでいない状況のようです。残った石垣のラインをなぞる
          と、浦添城はほとんど単郭の城だったとみられています。郭内は数段に仕切ら
          れていて、いくつかの拝所があったとされています。郭の重心付近に「ディーグ
          ガマ」と呼ばれる凹部があり、今な沖縄戦の犠牲者を追悼する「浦和の塔」が
          建てられていますが、かつては拝所の1つだったと考えられています。ディーグ
          とは「でいご」、ガマは洞(うろ)の意味だそうです。
           川上側は峰が細くなっていき、その先には為朝ゆかりの「ワカリジー」という
          岩があるそうです。ただ、そこへ行く一本道に「ハブ注意」の看板があり、旅先
          で万が一迷惑をかける事態になってはまずいと引き返しました。
           城内を歩いていると、どうにも城跡という以上に戦跡の印象が強く、さしもの
          私も浮かれ気分より悼む気持ちの方が勝りました。
           
 浦添城の復元部分。
 右手前のフェンス内は日本軍の壕跡。
郭内のようす。 
 郭内の石垣残存部分。
復元石垣越しに首里城(奥の山上)を望む。 
 ワカリジーへ向かう隘路。
ディーグガマ。 
 浦添ようどれ。
ようどれ入り口の「暗しん御門(うじょう)」。 
 牧港付近の石切り場から切り取り・移設
 された石切り場遺構。


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