平子氏館(たいらこし)
 別称  : 磯子城、平子平右馬允屋敷
 分類  : 平山城
 築城者: 平子氏
 遺構  : なし
 交通  : JR根岸線根岸駅徒歩20分


       <沿革>
           平子氏は、横山党の一流ないし三浦氏一族とみられている。『武蔵七党系図』によれば、
          時広の長男広長が平子野内を称したことにはじまるとされる。広長の子に平子有長と石川
          経長があるとされ、横山党の本拠である八王子市内に石川や太楽寺といった地名がある
          ことから、以前は横山党説が有力であった(ただし、太楽寺については所在不明)。しかし、
          横山党が壊滅的な打撃を受けた建暦三年(1213)の和田合戦に平子広長の名は現れず、
          戦後平子氏が仕置を受けた形跡もない。また有長は、源頼朝に無断で朝廷から任官され
          たことで、文治元年(1185)に叱責を受けている(『吾妻鏡』)。このことから、有長が源平
          合戦に馳せ参じた時広の孫とするのは、年代的に問題があるとする指摘もある(ただし、
          あり得ないほどのずれではない)。
           三浦氏説は、山形県長井市の平子家に伝わる『(越後)平子氏系図』に依拠している。
          それによれば、三浦為通の子三郎次長が久良気氏を名乗り、その曾孫が有長であると
          いう。その他にも三浦氏流とする系図がいくつか存在する。いずれも為通の子為継の三男
          通継にはじまるとしているが、有長までの系譜は明確でない。平子氏の本貫地は久良岐
          郡平子郷とされているため、現在では三浦氏説が有力である。
           平子郷は現在の南区平楽一帯とされている。平子氏も、「太楽」や「大楽」の苗字で登場
          することも少なくなく、「たいらこ」ないし「たいらく」と呼ばれていたとみられている(「平楽」
          の読みは「へいらく」)。先の有長は、建久四年(1193)の曽我兄弟の仇討ちの際、最初に
          曽我十郎祐成と切り結んだ武士として知られる。『曽我物語』では「武蔵国住人大楽の平
          右馬助」と名乗っているが、『吾妻鏡』には「平子野平右馬允」と記されている。同元年
          (1190)に頼朝が上洛した際の同行者のなかに「野平右馬允」の名があり、これも有長を
          指すと考えられている。
           有長の4代末の有氏の代に、平子氏は越後の所領へ下向したとされる。有長の弟経長
          の子孫も、越後国山田郷の地頭職を得て下向している。磯子に残った平子氏の動向は
          詳らかでない。永享十一年(1439)、永享の乱に敗れて鎌倉公方足利持氏が永安寺に
          攻められて自害した際に、最後まで持氏を守って討ち死にした近習のなかに平子因幡守
          の名がある。磯子平子氏一族とみられているが、詳細は不明である。
           永正九年(1512)、本牧四村を治める平子牛法師丸の名が現れる。これは、後北条氏
          から平子氏に与えられた制札にみられるもので、所領を安堵する代わりに北条氏への
          服従を要求するものである。しかし、永正が終わる頃には、磯子の平子氏は姿を消して
          いる。代わって、越後の牛法師右馬允房政・若狭守房長父子が上杉氏重臣として活躍
          している。一般に、磯子の牛法師丸と房政ないし房長は同一人物と考えられているが、
          確証はない。いずれにせよ、平子氏は永正年間ごろに北条氏によって磯子を逐われた
          ものと推測されている。

       <手記>
           平子氏館は、磯子小学校西の真照寺周辺にあったとされています。『武州古文書』の
          「平子家譜覚書」には、真照寺の北西に上屋敷が、その南五〜六丁のところに下屋敷
          があり、上屋敷背後の腰越山には陣城が設けられていたとあります。当時の真照寺は、
          東隣の磯子小学校一帯を含む広大な寺院だったといわれ、その北西にあたる一帯は
          寺の墓地となっています。この墓地は東側に対して段差がきつくなっていて、屋敷跡を
          利用したものと推測することは十分可能かと思われます。
           磯子旧道西側の下屋敷跡と推定されている一帯(地図の下の緑円のあたり)は、今は
          新興住宅地となっています。背後は三方を峰に囲まれた館地形となっていて、前方は
          旧道越しにすぐ根岸湾に臨んでいたものと思われます。当時は大堀と御影石の石垣に
          囲まれていたとも伝えられていますが、遺構はありません。
           陣城があったとされる腰越山は、北磯子団地となっています(地図の一番上の緑円
          周辺)。山と呼ぶほどの高低差がなく、本当に詰城があったのかと訝っていたところ、
          海岸埋め立てのために土取りされて、山は崩されたのだそうです。古地図を見ると、
          かつては半独立丘だったことが分かります。
           さて、平子氏について一番の論点となっているのは出自の問題です。前述のとおり、
          大きく分けて横山党説と三浦氏説があり、現在では後者が有力となっています。前者
          を支持する見解においては、「平子野内」や「平子野平」という名乗りが見られることに
          ついて、「野」の字が横山党の称する小野姓を意味すると考えています。私も、有長や
          その父広長が称する「野内」「野平」「平(右馬允)」の意味が気になってなりません。
          あるいは、「野平」や「平」は小野姓ならびに平姓を表わしているのではないかとも考え
          ています。思えば、和田合戦で壊滅した横山党が小野姓を名乗る一方、和田義盛は
          平姓である三浦氏の一族です。義盛の側室は横山時重の娘と伝わり、平子氏も三浦
          一族とするならば、同様に横山氏と縁戚関係にあったとしても不思議ではありません。
           ちなみに、上屋敷と下屋敷の間には2007年に火災に遭った浜マーケットがあります。
          戦後の闇市から発展した、古い昭和の雰囲気そのままの商店街です。火事があった
          とは思えないくらい活気に満ちた商店街ですので、ぜひ立ち寄られると良いでしょう。

           
 真照寺。
上屋敷跡と推定されている真照寺墓地。 
 北側から腰越山(北磯子団地)を望む。
下屋敷比定地周辺現況。 


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