高城(たか)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 新納時久
 遺構  : 曲輪跡、堀
 交通  : 東九州自動車道高鍋ICより車で5分


       <沿革>
           建武二年(1335)、日向国児湯郡新納院の地頭に任じられた島津忠宗の四男時久は、高城
          を築いて居城とし、新納氏を名乗った。観応の擾乱に際して、時久ら島津一族は尊氏に属した
          が、高城は正平五/観応元年(1350)に直義方についた日向守護畠山直顕の攻撃を受けて
          落城した。正平十二/延文二年(1357)に直顕が宮方の菊池武光に大敗すると、日向の名族
          土持氏が新納院を獲得し、高城は土持氏の有力分家の1つ財部土持氏の支城となった。
           長禄元年(1457)、財部土持氏と本家の縣土持氏の連合軍は、小浪川の戦いで伊東祐堯に
          敗れ、財部土持氏は没落した。高城も伊東氏のものとなり、祐堯の曾孫義祐の代には、伊東
          四十八城の1つに数えられ、野村蔵人佐が城主を務めた。
           天正五年(1577)、島津氏の攻勢を耐え切れなくなった義祐ら伊東氏一族郎党が、豊後へと
          落ち延びると、高城は島津氏に接収され、山田新介有信が城主に任じられた。
           翌天正六年(1578)、伊東氏の旧領回復を名分とした大友宗麟は、5万の大軍を率いて日向
          へ侵攻し、高城を囲んだ。籠城兵は、当初有信以下500名余であったが、まもなく島津家久の
          援軍1000余が到着した。大友勢は一度は高城を攻めたものの、激しい抵抗に遭ったため兵糧
          攻めに切り替えた。10日ほどが過ぎた十一月一日、島津義久らの後詰が到着し、同月十二日
          に決戦が行われた。
           高城下で北郷久盛を討ち取った大友軍は、勢いにのって高城川(現在の小丸川)を渡河し、
          島津軍本隊へ突撃した。両軍入り乱れるなか、川下の老瀬に控えていた島津以久の別働隊
          と高城の兵が大友軍の側背を衝いたことで、大友軍は混乱に陥り、退却を始めた。ところが、
          高城の北を流れる切原川が大雨で増水していたため、大友軍の撤退は困難をきわめ、多くの
          将兵が討ち死にあるいは溺死した。島津軍の追撃は激しく、高城から25km近くも離れた耳川
          で、大友軍は再び多数の水死者を出した。一連の戦いを総称して耳川の戦いと呼び、高城下
          での局地戦を高城川の戦いと呼ぶ。この戦いで、久盛が囮となっていわゆる釣り野伏せ戦法
          がとられたと広く伝えられているが、明確に囮戦法がとられたとする証拠はない。この戦いで、
          大友軍の死者が4000人とされるところ、島津軍も3000人の犠牲者を出していることから、鮮や
          かな作戦勝ちというものではなかったことがうかがえる。今日では、両軍が拮抗しているところ
          へ以久、有信の手勢が脇から突入したことで、大友軍が浮足立ったことが勝敗を分けたものと
          みられている。そもそも、大友軍は総大将の宗麟を欠いており、指揮系統が定まっておらず、
          組織的な進退が不可能であった点に、両軍の差があったものと考えられる。
           天正十五年(1587)、豊臣秀吉の九州平定に際し、高城は再び主戦場となった。豊臣秀長
          率いる8万〜15万と称する大軍は、高城の周囲に51もの砦を築いて包囲網を敷いた。城主は
          有信であったが、やはり後詰の軍が到着するまで持ちこたえていた。四月十七日夜、島津軍
          は高城の南の根白坂砦(根城坂、目白坂とも)を急襲した。砦の守将の宮部継潤は善戦し、
          戦況は一時膠着した。秀長は救援部隊を出そうとしたが、軍監尾藤知宣が諫言したため中止
          となった。しかし、秀長麾下の藤堂高虎が独断で手勢を率いて加勢に向かい、これに小早川
          隆景・黒田孝高が呼応した。これによって、今度は島津軍が挟撃される形となり、多くの犠牲
          を払って撤退した。一説に、高虎は間者を放ってこの夜襲を事前に知っていたともいわれる。
          援軍の見込みのなくなった有信は、やむなく息子の有栄を人質として開城した。ちなみに、
          知宣はこのときの読み違いを責められ、禄を失った。
           九州平定後、高城は秋月種実の所領に組み入れられた。種実は家督を嫡子種長に譲り、
          種長は櫛間城を居城とした。種長は慶長九年(1604)に居城を財部城(高鍋城)に移したが、
          高城がいつごろまで存続したのかは定かでない。遅くとも、元和元年(1615)の一国一城令
          までには廃城となった。


       <手記>
           高城は、小丸川と切原川に挟まれた細長い峰の先端に築かれた城です。大軍を相手に2度
          も善戦しているだけあって要害の地にありますが、決して巨城というわけではありません。
           現在、城跡は城山公園となっています。とくに主郭周辺は公園化による整地の具合が激しく、
          九州を代表する激戦の舞台の1つという感じはほとんどありません。ただ、注意深く見れば、
          公園の中心となっている本丸の1段下に残る帯郭のようすがうかがえます。
           高城址に残るもっとも顕著な遺構は、尾根筋の西側に連なる堀切群です。車両が通れる分
          だけ舗装されているため、一見すると堀切というより竪堀のように思えてしまうのが残念です。
          史料には、この堀切は7本あるとされていますが、私が見た限りで5本確認できました。堀切
          の本数については2通りの見方があり、1つは、「7本」というのは「たくさんある」という意味で、
          実際の数はそれより少ないというもので、もう1つはよくよく探せばちゃんと7本あるとするもの
          です。いずれが正しいにせよ、この堀切群が高城の一番の要害であり、頼みの綱であること
          には変わりありません。
           さて、この高城下で繰り広げられた大友軍と島津軍の戦いは、上記の通り「耳川の戦い」と
          呼ばれていますが、当の耳川はここから20km以上も離れています。私には、なぜ高城川では
          なく耳川が一般呼称として採用されているのか不思議でなりません。調べてみると、日向国内
          には他にもいくつか「高城」と呼ばれる城が存在するそうで、あるいはこれらとの混同を避ける
          ための呼び方なのかな、と感じました。

           
 本丸跡に建てられた城郭風時計台。
本丸から高城川古戦場を望む。 
奥の台地上が根白坂古戦場。 
 本丸下の帯曲輪。
本丸南面の帯曲輪を望む。 
 本丸の付け根。堀切跡か。
連続堀切跡。 
 同上。
堀切群に架けられた舗装橋。 


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