武田氏館(たけだし)
 別称  : 武田信義館
 分類  : 平城
 築城者: 武田信義
 遺構  : 土塁
 交通  : JR中央本線韮崎駅よりバス
       「武田上組」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           源義光(新羅三郎)の孫清光の次男武田信義の館とされる。信義は、甲斐源氏の惣領として平氏に
          対して兵を起こし、駿河国に進出して支配下に置いた。源平合戦では源頼朝に属して活躍した。
           しかし、甲斐源氏の勢力拡大を恐れる頼朝は元暦三年(1184)、信義の嫡男一条忠頼を謀殺した。
          信義自身も駿河守護職を解かれた上、頼朝に対して子々孫々まで逆心しない旨の起請文を書かされ、
          頼朝の一家臣であることを確認させられた。
           文治二年(1186)に信義は死去し、五男の石和五郎信光が武田氏の家督を継いだ。信光は、苗字の
          とおり石和に居館を構えていたため、信義の死とともに信義の館も廃されたものと推測される。その後、
          再び利用されたのかは不明である。


       <手記>
           武田氏館は、釜無川に臨む高台の集落のなかにあったとされています。東は釜無川の河岸、南北を
          その支流の谷戸に挟まれ、地域自体が要害地形を成しています。集落内にもいくつかの小沢が流れて
          いたようで、日当たりもよく生産性の高い地域であったと推測されます。
           館の正確な位置や規模は詳らかではありません。田んぼのど真ん中に、館跡の説明板と標識が建て
          られています。その北側には、道路に面して土塁跡と考えられている墓地に転用された細長い土盛りが
          あります。
           南西1qほどのところには、信義が築いたとされる白山城址があります。

           
 武田氏館跡標柱と説明板。
土塁跡か。 
 館跡標柱一帯のようす。
 右奥に富士山を背景に。


BACK