白山城(はくさん) | |
別称 : 鍋山砦 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 武田信義か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR中央本線韮崎駅よりバス 「武田八幡入口」バス停下車徒歩20分 |
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<沿革> 白山城は、源義光(新羅三郎)の子清光の次男武田太郎信義によって築かれたと伝えられる。 信義は、白山城北麓に鎮座する武田八幡宮で元服し、白山城北東の武田郷に居館を構えた。 ただし、信義による築城の記録はみられないため、真偽のほどは定かでない。 『寛政重修諸家譜』によれば、武田氏に仕えた青木信種が「鍋山砦」を守り、天文十年(1541) 十月二十日に死去したとある。この鍋山砦とは、白山城を指すものと考えられている。青木氏は、 信義の子一条忠頼を祖とする武川衆の一員である。 信種の次男信明は、山寺郷を分知されて山寺氏を称した。鍋山周辺も山寺氏の所領となり、 白山城も同氏の守るところとなったといわれる。信明は、永禄四年(1561)の川中島の合戦で 討ち死にしたとされる。信明の子信昌は、天正十年(1582)の天正壬午の乱に際して徳川家康 に味方し、本領を安堵された。 廃城時期は不明だが、遅くとも天正壬午の乱の終結とともに役目を終えたものと推測される。 <手記> 白山城は、武田八幡宮の南に突き出した半独立状の山上にあります。西側のみ峰続きで、 その山容から鍋山の地名が生まれたとされています。白山城の名は山の中腹にある白山神社 にちなんだものです。 現在、白山城へは北の武田八幡宮側からと、南の白山神社側からの2つの登城ルートがあり ます。私は交通の便もあって武田八幡側から登ったのですが、とにかく登城口が見つけにくく、 最大の難関となっています。地元の方に聞いてはじめて分かりましたが、独力では発見不可能 だと思いました。 まず、武田神社の山門前を南にまっすぐ進みます。すると、突き当りに白山城址の標識があり ます。これが、こちらから登る際の唯一の標識なのですが、問題はここからです。白山城址一帯 は、熊が里に下りてこないための鉄柵が張り巡らされています。標識の右手には、鉄柵に設け られた入山ゲートの1つがあります。これをくぐって少し道を上ると、左手に用水を渡る石橋があり ます。これを渡ってまた右手に藪道を上がっていくと、左手に谷筋を上る堀底道のようなものが 見えます。これを進みつつ、また左手を注視すると、やがて城山を上る木製の階段が見えます。 これを見つけられるか否かがすべてです。見つけられさえすれば、あとは登るだけです。 白山城は、山頂の主郭を中心に複数の帯曲輪や腰曲輪、そして畝状竪堀が取り巻く構造と なっています。峰続きの西側と、傾斜がやや緩やかな北側は、2条の堀切で切られています。 大手は南側とされ、本丸虎口も南東に設けられています。主郭の南には副郭があり、その南に 腰曲輪を連続させながら大手道が下っています。特徴は、主城域をぐるりと取り囲む帯曲輪と その下の畝状竪堀ですが、両者とも今は藪の中で、はっきりとは観察しにくい状況にあります。 この構造は、火砲を主力として城に敵を近づけないという、トーチカを思わせる防御構想を意味 していると考えられます。すなわち、武田信義どころか、かなり戦国時代も後期の改修による ものといえます。 そもそも信義の時代に、このような山上の要害が必要だったのかな?という疑問はさておき、 白山城は新府城と並んで武田氏流築城術の最後を飾る貴重な遺構であると思います。 |
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白山城址遠望。 | |
北側から登る際は、標識とその隣のこのゲートを 目指します。高圧電線が通っているので要注意。 |
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北側からの登城口。 これを見付けるのが最難関です。 |
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本丸のようす。 | |
本丸虎口。 | |
本丸南側の副郭。 | |
大手口の腰曲輪。 | |
腰曲輪が連なる大手道。 | |
本丸背後の堀切。 | |
本丸北側の帯曲輪と虎口を望む。 | |
本丸北側の1条目の堀切。 | |
1条目の堀切の土橋。 | |
本丸北側2条目の堀切。 |