武居城(たけい)
 別称  : 片山古城
 分類  : 山城
 築城者: 諏訪五郎時重
 遺構  : 曲輪跡、堀、土塁
 交通  : JR中央本線上諏訪駅よりバス
       「峠入口」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           『諏訪古事記』によれば、元徳二年(1330)に諏訪五郎時重が武居に居館を構えた。
          時重は、執権北条高時の娘を娶り、幕府滅亡に際して高時とともに鎌倉で自害したと
          される。ただし、諏訪一門で鎌倉で自害した者には諏訪時光がいるものの、時重という
          人物については不明である。
           文明十五年(1483)、当時惣領家と大祝家に分裂していた諏訪氏は「文明の内訌」と
          呼ばれる内部抗争を惹き起こし、敗れた大祝家の諏訪継満は高遠へと逃れた。翌年、
          継満は再起を図って「片山古城」を取り立て本陣としたと『守矢満実書留』にある。この
          「片山古城」は武居城を指していると考えられている。継満は惣領家諏訪頼満と和議を
          結び、後に惣領家に吸収される形で諏訪氏は再び統一された。
           天文十一年(1542)に甲斐の武田晴信が諏訪へ侵攻した際には、諏訪頼重の家臣
          篠原弥三郎が城代を務めていたとされる。諏訪惣領家滅亡後は、諏訪氏一族の諏訪
          頼量(大祝家一族とみられる)が城主となった。天正十八年(1582)に諏訪頼忠が旧領
          を回復すると、武居城は破却されたと伝えられる。


       <手記>
           武居城は、諏訪大社上社本宮と前宮の中間付近に位置しています。また、城の東裾
          を杖突峠越えの旧道が走っていたとされ、交通の要衝でもあります。こうした位置関係
          から、武居城が大祝家にとって重要な意味をもっていたことは想像に難くありません。
           普通の山城に比べて、山城部と居館部がそれぞれに高い独立性をもっているのが、
          武居城の大きな特徴です。これは、居館部とされる通称「武居平」の地形に起因して
          います。武居平は城山の裾からベロンと張り出した扁平な高台です。周囲からは急崖
          で隔絶されていながら、頂部はなだらかで広大な空間となっています。このだたっ広い
          台地の東半分ほどが小字「保科畠」と呼ばれ、ここに居館が営まれていたといわれて
          います。現在、武居平は全域が畑となっていて、遺構の確認は困難です。
           山城部は、主郭とその下を取り巻く帯曲輪、そしてその先に数段の腰曲輪が続いて
          います。この帯曲輪は諏訪の他の山城のそれよりかなり広く、武居城の規模の大きさ
          がうかがえます。主郭背後には、尾根筋を切る堀切と土橋があり、山城の教科書とも
          いえる縄張りとなっています。武居平から登る林道脇に、入口の案内板と頂上までの
          登りやすい堀底道が整備されています。

           
 主郭のようす。
主郭下の帯曲輪のようす。 
 主郭背後の堀切跡(土橋)。
居館跡とされる武居平の小字「保科畠」周辺のようす。 
奥にみえるのは八ヶ岳。 
 武居城址遠望。


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