詫間城(たくま)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 詫間氏か
 遺構  : 不詳
 交通  : JR予讃線詫間駅からバスに乗り、
      「城下」下車徒歩1分


       <沿革>
           元弘元年(1331)、元弘の変によって讃岐国へ配流となった後醍醐天皇の皇子宗良親王は、
          詫間三郎に丁重に迎えられたとされる。詫間城の南東800mほどのところに親王の旧蹟があり、
          詫間城はこの詫間氏の居城として築かれたと考えられているが、確証はない。また、詫間氏の
          出自についても不明である。
           『西讃府志』によれば、詫間氏は応永年間(1394〜1428)ごろに断絶し、代わって讃岐守護
          細川氏の家臣として香川氏が多度・三野・豊田の3郡を与えられた。詫間城には、時期は不明
          であるが、甲斐出身の山地右京進が香川家臣として入った。
           『全讃史』によると、右京進の子の九郎左衛門は、三木郡池戸城へ移って十河氏に属したと
          される。山地九郎左衛門については、天正十一年(1583)の香川信景の感状に名が見える。
          一方、『讃陽古城記』には「三木池戸村中城跡 安富端城也 後ニ山地九郎右衛門居之 山地之
          先祖者 山地右京進 詫間ノ城ノ城主ニシテ」とあり、「九郎右衛門」は「九郎左衛門」の誤記と
          みられている。この場合、右京進と九郎左衛門の間には数代あることが想起される。また感状
          の時期を鑑みると、香川氏の降った長宗我部元親の讃岐侵攻に際して、九郎左衛門が池戸に
          配されたとも推測されるが確証はない。
           山地氏が池戸城へ移って以降の詫間城の動静は不明である。


       <手記>
           その名も城下という交差点の西側にある丘が、詫間城跡とされています。北東にある埋立地
          のような区画は、かつては広大な塩田だったそうで、当時は城山のすぐ下まで海水がきていた
          のではないかと思われます。北側が部分的に地肌の剥き出た急崖となっていますが、これは
          塩田を埋める際の土取りに削られた跡だそうです。
           そのほかにもなんやかんやで丘は縮小しているようで、なおかつ頂部付近は藪に覆われて
          いるため、どこまで旧状を留めているのかも分かりません。南東中腹に墓地があり、そこからが
          頂部に最も接近できるルートのようですが、それでもド藪に阻まれて中心部には入れません。
          よしんば行けたとしても、この藪では何も分からないでしょう。
           城山の南西には、平地を挟んで城荒神宮の丘があります。ひょっとして、かつては2つの丘が
          地続きではないかと思ったのですが、後で調べたところ、少なくとも戦後のころには、丘の間は
          水田となっていたようです。神社も訪ねたものの、城跡らしいものは見当たりませんでした。
           ちなみに、両丘の間にはキャッスルガーデンというアパートがあります。ここを城跡と知っての
          命名なのか、単に城下の地名にちなんだものかは定かでありませんが、皮肉にも城跡を示す
          数少ないものの1つとなっています。

           
 城荒神宮から詫間城跡の丘を望む。
城山南東中腹の墓地。 
 城山北面のようす。


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