石原城(いさ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 大槻安芸守
 遺構  : 堀、土塁、虎口
 交通  : JR山陰本線石原駅徒歩7分


       <沿革>
           城跡に建つ洞玄寺の『縁起書』によれば、天文年中(1532〜55)に大槻安芸守光頼が
          築いたとされる。他方、江戸時代中期に編纂された同寺の『寺記』には、やはり天文年間
          に安芸国からやって来た大槻安芸守政治の築城とある。『丹波志』でも大槻安芸守政治
          を城主とし、その法名を洞玄大居士としているのは、『寺記』を踏襲したものであろうか。
           一方、『日本城郭大系』では、同じく安芸守を称した大槻辰高を築城主と推定している。
          ただし、光頼の没年は弘治元年(1555)で、辰高は天正年間(1573〜92)とされ、1世代
          以上のずれがある。
           大槻氏は天正七年(1579)に明智光秀が丹波を平定するまでに没落したとみられるが、
          石原城の動静は定かでない。


       <手記>
           石原城は、南西から延びる丘陵の先端部を利用して築かれています。上述の通り城跡
          は洞玄寺境内となっていますが、南辺を中心とする空堀と土塁が良好に残っています。
          とくに横矢状の張り出しが残っているのは注目に値する点で、戦国時代後期の築ないし
          改修とみるべきでしょう。また南東隅付近には、虎口跡と推定されている開口部もみられ
          ます。南東の山上には詰城と思われるヌクモ山城があり、石原城主がそれなりの勢力を
          有する土豪であったことがうかがえます。
           一番の論点は城主についてでしょう。諱はともかく名乗りが「大槻安芸守」という点では
          一致しており、これは間違いないものと思われます。ただ、安芸国出身というのは流石に
          こじつけが過ぎるでしょう。大槻氏自体は、鎌倉時代後期ごろには何鹿郡に土着し、郡内
          各地に根を張っていた一族とされています。
           『大系』が挙げる大槻安芸守辰高については、高津八幡宮に画像が残っているそうで、
          実在した可能性は高いようです。他方で、築城主の安芸守が弘治元年没というのも疑う
          要素はないように感じられます。辰高が天正年間に死去したとすると、2代続けて安芸守
          を称したと考えれば、最もすんなりと説明がつくのではないでしょうか。
           ちなみに、城跡の南には京都府立工業高等学校が隣接しています。洞玄寺境内や脇の
          階段はJR石原駅への近道となっているようで、ちょうど夕刻に差し掛かっていたことから
          ちらほらと高校生が下向していました。しかしながら、青春に忙しい彼らはこの素晴らしい
          遺構に見向きもしません^^;

 横矢折れの空堀と土塁。
同上。 
 南東隅付近の空堀と土塁。
洞玄寺。 
 南東隅付近の推定虎口跡。
城跡付近からの眺望。 


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