箕輪城(みのわ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 不詳 | |
遺構 : 堀、土塁 | |
交通 : JR常磐線・成田線我孫子駅よりバス 「道の駅沼南」バス停下車徒歩15分 |
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<沿革> 『東葛飾郡誌』には戸張弾正の家臣高城伊勢守の城とある。戸張氏は、千葉氏族 相馬師常の八男行常にはじまるとされるが、戸張弾正なる人物の名は諸系図からは 確認されていない。『本土寺大過去帳』には「長享二年(1488)立沢弾正入道トハリ」 とする記述があり、この立沢弾正と戸張弾正が同一人物であるとも考えられる。立沢 氏はやはり千葉氏庶流で、千葉成胤の三男三谷胤広の子胤義にはじまるとされる。 他方、高城伊勢守なる人物についても定かでない。八千代市の吉橋城主に、高城 伊勢守胤貞の名がみられるが、箕輪城とはかなり離れているため同一人物とは考え にくい。 手賀沼周辺は、戦国時代中期以降には小金城主高城氏の勢力圏に組み込まれて いた。伊勢守についても、この高城氏の一族とみる向きが強い。その場合、伊勢守が 千葉氏庶流とみられる戸張弾正の家臣であったとすることには違和感があり、主従 関係は逆だったのではないかとする説もある。ただし、戸張弾正が立沢弾正であった とすると、その存命期間にあたる15世紀には、まだ高城氏は現在の松戸市内の土豪 程度に過ぎず、戸張氏が高城氏に従わなければならない理由はないといえる。 とはいえ、縄張りの様子から、最終的な改修者が小金城主高城氏であることはほぼ 間違いないものと思われる。 <手記> 箕輪城は、手賀沼に臨む舌状の丘陵群の1つを利用して築かれています。現在、 城跡の大部分は手賀沼病院の敷地となっていますが、建設に先立って発掘調査が 行われ、実測図が残っています。それによると、綺麗な田の字型に曲輪が配置され ており、第一象限から時計回りにT、U、V、W郭と割り振られています。建設され たばかりの頃は、東側先端部に位置するT、U郭が比較的残っていたようですが、 近年こちらにも病院が拡張されたようで、今ではほとんど消滅しています。Google の衛星写真をみると、拡張工事に先立って発掘調査がなされているさまが捉えられ ていました。 辛うじて破壊を免れているのが、U郭の(おそらく)南端部分の空堀と土塁です。 台地の東端付近で、道の南側に、北側の病院敷地より1段低く、地面がむき出しに なっているところがあります。さらに何か建てる予定地だろうかと訝りながらも歩いて みると、その先に見事な堀と土塁が顔を出します。近代的な建物の間から唐突に 出現するので、本当に遺構かどうか一瞬たじろぎましたが、病院に必要な造作とも 思えないので、ようやく城跡らしさにめぐりあえたと小躍りしました。この堀は駐車場 に突き当たって途切れていますが、残っている部分だけでも見ごたえはあるので、 なんとかここだけでも壊さずに保存していただきたいものです。 さて、実測図をみる限り箕輪城の縄張りにはかなりの工夫がみられ、最終的には 戦国時代後期に改修を受けたものと思われます。ただ、手賀の杜ニュータウン付近 にはじまり、箕輪城の東麓で手賀沼に至る沢谷戸は、緩やかで幅が広く、周辺でも それなりに生産性の高い谷戸だったのではないかと思われます。したがって、もと もとは在地領主の居館としてスタートし、勢力を拡大した高城氏に、重要拠点として 目を付けられたものではないかな、と個人的には拝察しています。 |
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箕輪城址を東から望む。 | |
箕輪城址現況(手賀沼病院)。 | |
U郭南端に残存する堀と土塁。 | |
同上。 | |
同じく、駐車場との境目付近。 | |
空堀周辺を俯瞰する。 曲輪跡として残っているものか。 |