| タール城(Burg Thal) | |
| 別称 : ウンタータール城 | |
| 分類 : 平山城(Höhenburg) | |
| 築城者: タール家 | |
| 交通 : グラーツ中央駅からバスに乗り、「Gösting」で 乗り換え、「Thalersee」下車徒歩5分 |
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| 地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1259年に、グラーツの名門貴族であるコンラート1世・フォム・グラーベンの弟ヴァルターが タール家(von Thal/de Valle)を称していることから、13世紀前半ごろに築かれたとみられて いる。1292年、シュタイアーマルクで神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世に対する大規模な反乱 が起きると、タール家は皇帝側に属したが、タール城は反乱軍によって攻め落とされて焼き 払われた。 タール家の名は1307年を最後に文書にはみられなくなり、これと前後してヴィンディッシュ =グレーツ家が城跡を入手した。1322年には城内の礼拝堂についての記述がみられ、遅く ともこのときまでに、タール城は同家によって再興されたものとみられている。14世紀末ごろ には、タールの上手に新しく城館が造営されたため、そちらをオーバータール(上タール)、 タール城周辺をウンタータール(下タール)と呼ぶようになった。1443年には、ジークムントと ルプレヒトの兄弟の間で上下タールの領地が分割されたが、オーバータールを相続した弟の ルプレヒトが兄から多額の補償金を受け取っていることから、ウンタータールの方が所領の 価値が高かったことがうかがえる。 1525年から城の大規模な改修工事が進められたが、1569年には、税金の滞納額増大を 理由にヴィンディッシュ=グレーツ家はゲオルク・フォン・ケーヴェンヒュラーに城を売却した。 城と領地は、そのままオーストリア大公カール2世に献上され、リュプレヒト・ヴェルツァーが 代官に任じられた。1576年、カール2世は城をマクシミリアン・フォン・シュロッテンバッハに 貸与したが、この時点で建物は大きく荒廃していたといわれる。 1623年、ハプスブルク家の宮中顧問官首長ハンス・ウルリヒ・フォン・エッゲンベルクが城 の所有権を購入した。しかし、城内には使用人が一人住まうだけで、建物は荒れるに任せて いたとされる。1715年には、火災により居住可能な部屋のほとんどを焼失した。 1717年にエッゲンベルク家が無嗣断絶すると、縁戚のヘルベルシュタイン伯が遺領を相続 したが、タール城はその後も顧みられることはなかった。 <手記> タール(Thal)とはドイツ語の谷(Tal)が語源と思われ、その名の通り盆地のグラーツから 山稜を挟んで西側の谷あいに広がる長閑なエリアです。ゲスティング城の麓でバスを乗り 換えて、谷を形成するターラー川を遡ってターラー湖へ向かえば、その上の小丘がタール城 の跡です。 1943年以降は個人所有となっていて、1996年には残っていた城塔が夏季の別荘に改築 されたそうですが、現在は人が出入りしている様子はなく、だいぶ荒れてしまっています。 閉ざされた門を見ても人が出入りしている感じはみられず、このままでは早晩危険な状態に なってしまうでしょう。 城山自体はさして高くも険しくもなく、門や塔は集落側とほとんどフラットに接しています。 北側が登り石垣のようになっていて、林の中を直登してみると、その先にも円形の塔の基部 が残っていました。そのまま山の東側まで城壁が続いているように見えましたが、私有地の うえに山自体も荒れているので、これ以上の探索は諦めました。 ちなみに、訪れて初めて知ったのですが、タール城の目の前にはアーノルド・シュワルツェ ネッガーの生家があります。今は資料館となっていて、玄関の前にはムッキムキの銅像が 建ち、同好の士と思しきマッスルな男性がしげしげと眺めていました。 |
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| 夏の別荘として改葬された城塔。 | |
| 城塔脇の城壁。 | |
| その脇の門。 | |
| 北辺の登り石垣状の城壁。 | |
| その先の円形の塔跡。 | |
| ターラー湖側から城山を望む。 | |
| おまけ:すぐ目の前にあるアーノルド・シュワルツェネッガーの生家。 | |
| 玄関前のアーノルド・シュワルツェネッガー像。 | |