外山城(とやま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 村上氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : しなの鉄道田中駅よりバス
       「羽毛山」バス停下車徒歩30分


       <沿革>
           天文年間(1532〜55)に武田晴信と長尾景虎の対立のなかで築かれたとする伝承
          が残る。東御市教育委員会設置の現地説明板では、文明年間(1469〜86)に村上
          政清が築城したものと推測している。市教委の見解が正しければ、天文十年(1541)
          に外山城眼下で海野平の戦いが行われた頃までには、村上氏の城として存在して
          いたものと考えられる。
           村上義清が葛尾城を捨てて越後の景虎を頼って落ち延びた天文二十二年(1553)
          までの間に、外山城は晴信に奪取されたものと思われるが、詳細は不明である。
           天正十年(1582)に武田氏が滅亡し、同年中に本能寺の変が起きると、小諸城
          接収した依田(蘆田)信蕃の家臣依田十良左衛門が外山城に入ったと伝わる。続く
          天正壬午の乱で、信蕃は徳川家康に属し、碓氷峠を越えて進入した北条氏直勢に
          抵抗した。乱の終結により廃城となったものと推測されるが、詳細は明らかでない。


       <手記>
           外山城は、千曲川水系にがっつり浸食されてできた八重原台地から細く突き出た
          峰先に築かれています。台地の付け根付近に駐車スペースと説明板が設置されて
          おり、県道167号線沿いから案内標柱も完備されているので、訪ねやすい城跡です。
           駐車場から10m弱ほど尾根先へ下ったところから城域がはじまります。城址標柱
          と四阿がすぐに現れ、その先に土塁と堀切、そして現地で烽火台とされる櫓台状の
          高まりが目に飛び込んできます。堀切を越えた先の主郭は、ひな壇状に3段に削平
          されています。ただ、当時の造作かどうかは判断しかねます。
           主郭の先端には、小規模ながら桝形虎口状の地形があり、その先には山麓への
          道が伸びています。ただ、この虎口部から少し下ったところまで明らかに後世のもの
          と思われる石段が設けられており、虎口についても当時の遺構かは留保が必要な
          ように感じます。下り道は、もとは麓まで通じていたものと思われますが、現在では
          途中で消失しています。その間にも、曲輪や虎口の跡のように見える箇所もあるの
          ですが、やはり断言はできかねます。
           外山城の特徴として、峰の付け根に対してかなり低い位置にあり、集落や畑地の
          広がる八重原台地方面については、まったく望むことができないという点が挙げられ
          ます。したがって、現地説明板でも指摘されている通り、外山城は第一義的に烽火
          用の城であったものと推測されます。外山城は、海野平方面と小諸方面の双方に
          眺望が開けており、両者を烽火で繋ぐうえで重要な役割を果たしたものと推測され
          ます。

           
 羽毛山橋から外山城址を望む。
城址標柱。 
左手に土塁。中央奥に烽火台土塁。 
 堀切と烽火台。
土塁。 
 主郭のようす。
 3段になっています。
主郭先端の虎口状地形。 
 海野平方面の眺望。
駐車場付近から外山城址を見下ろす。 


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