小諸城(こもろ)
 別称  : 穴城、鍋蓋城、乙女坂城、白鶴城
 分類  : 平山城
 築城者: 武田晴信
 遺構  : 門、石垣、天守台、虎口、土塁、堀、井戸など
 交通  : しなの鉄道/JR小海線小諸駅徒歩5分


       <沿革>
           小諸は、古くは小室と呼ばれ、滋野一族の小室氏が治めていた。平安時代の末、
          小室太郎光兼が宇当坂に居館を建造したとされる。宇当坂は現在の本町にあたり、
          中沢川に沿って築かれたものと思われる。本町は、今日の小諸城大手門の外側に
          位置しているが、広義にはこの宇当坂の館が小諸城のはじまりとされる。建久八年
          (1197)には、善光寺に参詣した源頼朝が当館に滞在したといわれる。
           南北朝時代に入り、南朝に属した小室氏は北朝方の大井氏に駆逐された。しかし、
          その大井氏も北信で勢力を伸ばしていた村上氏の圧迫を受け、文明十六年(1484)
          に大井光照が居城を富士見城から宇当坂の館に移したとされる。光照は、大井宗家
          の大井城主大井持光の次男とされるが、甲斐武田氏庶流の大井氏の出身ともいわ
          れる(『四鄰譚藪』)。
           長享元年(1487)、光照の子光忠は、宇当坂の南西に位置する鍋蓋の丘に新たに
          鍋蓋城を築いて移った。鍋蓋城は現在の大手門付近の丘にあったとされる。光忠の
          子光安(光為)のとき、鍋蓋城から続く丘に支城として乙女坂城が築かれた。乙女坂
          城の中心は現在の二の丸付近にあったとされるが、その場合に現在の本丸付近が
          手つかずとは考えにくいため、このときに近世小諸城の主城域をエリアとする鍋蓋城
          −乙女坂城ラインが形成されたものと推測される。
           天文十二年(1543)、鍋蓋城と乙女坂城は武田晴信(信玄)によって攻略された。
          晴信は、東信の経営拠点として、また北信侵攻の兵站基地として乙女坂城の改修を
          指示した。『甲陽軍鑑』によれば、普請の責任者は馬場美濃守信幸と山本「勘介」で
          あったとされる。ただ、軍師山本勘助の存在は立証されておらず、また馬場「信幸」を
          信春(信房)の誤記とすると、当時信春はまだ教来石景政を名乗っていたため、『甲陽
          軍鑑』の記述の信憑性は高いとはいえない。いずれにせよ、武田氏のもとでの改修が
          狭義の小諸城のはじまりとされる。
           弘治二年(1556)、晴信は甥の信豊を小諸城主としたとされている。ただし、信豊が
          小諸城主であったとする一次史料はなく、記録上にみられる小諸城主は下曽根氏で
          ある。
           天正十年(1582)、織田信長による武田氏攻めが始まると、信豊は信長に寝返った
          木曽義昌を討つべく出陣を命ぜられた。しかし、鳥居峠で義昌・織田信忠軍に敗れ、
          信豊はわずか20騎ほどを連れて小諸城に逃れた。小諸城主(信豊城主説の場合は
          城代)下曽根浄喜(信恒)は、信豊を騙し討ちにして織田氏に降った。しかし、信長は
          浄喜を不忠として誅殺し、森長可が城を接収してそのまま城代を務めた。
           同年に武田氏が滅亡すると、小諸城は滝川一益に与えられ、一益の甥道家正栄が
          城主となった。まもなく本能寺の変が発生すると、一益は領国の伊勢へと撤退した。
          小諸城には旧武田家臣で土豪の蘆田(依田)信蕃が入った。続く天正壬午の乱では
          信蕃は徳川家康に属し、小諸城を北条氏直に奪われたが後に奪回している。翌十一
          年(1583)、信蕃は岩尾城に大井行吉を攻略中に戦死し、その子康国が小諸城主を
          継いだ。
           天正十八年(1590)の小田原の役の際、上州石倉城攻めで康国は戦死した。役後、
          康国の跡を継いだ弟の康勝は、家康の関東移封に従って小諸を去った。代わって、
          仙石秀久が5万石で小諸城主となった。秀久は、同十四年(1586)の戸次川の戦い
          での失態により豊臣秀吉の勘気を蒙って浪人していたが、同役で奇抜ないでたちで
          参戦して軍功を挙げ、大名として復帰した。今日の小諸城の縄張りは、秀久によって
          なされたものとされる。城の改修や城下町の形成における秀久の農民への課役は
          苛烈だったらしく、佐久郡では一郡まるごと農民が逃散する事態まで起こっている。
          慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、上田城攻めを強行した徳川秀忠が小諸城を
          本陣とした。
           2代忠政のとき、仙石家は上田へ転封となった。小諸は甲府の徳川忠長の所領と
          なり、城代が派遣された。寛永元年(1624)に忠長が改易されると、小諸には大垣
          から松平憲良が入った。その後も青山宗俊、酒井忠能、西尾忠成、松平乗政と譜代
          大名が1代ごとに目まぐるしく入れ替わった。元禄十五年(1702)に、牧野康重が1万
          5千石で入城し、ようやく藩主家が落ち着いた。康重は5代将軍徳川綱吉の母桂昌院
          の弟本庄宗資の子で、綱吉の従弟にあたる。表高に比して、実高は3〜4万石あった
          とされる。コネのみでの栄転(小諸の前は与板1万石であった)との後ろ指を躱すため、
          あるいは牧野氏宗家の長岡藩に遠慮したため実際より低く算出したとされる。
           寛保二年(1742)、三の門が押し流されるほどの大洪水が発生した。災後、城内に
          唯一の井戸である荒神井戸が掘られた。三の門は、明和二年(1765)にようやく再建
          された。牧野家は、10代を数えて明治維新を迎えた。

           
       <手記>
           小諸城は、千曲川とその支脈に三方を削られた急峻な河岸上に位置しています。
          主城域は三角形に近い形をしていて、その付け根のあたりに現存する三の門があり
          ます。ほかにも、維新後に塾舎や料亭として使用されていた大手門が、平成二十年
          (2008)に元の位置に移築復元されています。
           小諸城址は島崎藤村の「小諸なる 古城のほとり」ではじまる『千曲川旅情のうた』
          や、懐古園として知られているためか、建物もないのに城内は有料です(三の門や
          大手門は無料で見られます)。城内には石垣や堀がかなり残っています。城好きなら
          楽しいでしょうが、一般人にとってお金を払ってまで見たいものかは疑問です(笑)。
           小諸城の特徴は、穴城という別称のとおり主城域が城下町よりも低い位置にあり、
          城下から城内を覗くことができたという点にあります。さすがに今日では市街地化に
          よって見通しはよくありませんが、大手門も三の門もほとんど埋門のようになっていて、
          門をくぐるために坂を下りる格好となっているあたりに、穴城のようすをうかがうことが
          できます。本来は、城内が見通せるというのは当然ながら弱点となるわけですが、
          小諸城の場合は武田氏が防衛拠点ではなく経営・駐屯拠点として改修したことから、
          遠方から兵の集まっているようすが分からないというのが利点とみなされたようです。
           また、本丸が石垣で方形に囲まれた天守曲輪と原地形を利用した輪郭式の帯曲輪
          の2段で構成されていて、学研『戦国の城(下)』ではこの縄張りを大坂城などに似た
          豊臣期の城郭の特徴であるとみています。そこまで言い切ってよいものかは分かり
          ませんが、たしかに武田流とは異なっている部分だとは思われます。他方で、本丸の
          西端にある堀は、中世の面影を残しているように思います。
           もう1つの見どころは、主城域の両脇に深く切り込む谷です。当時はこれらの自然谷
          の外側に、南北それぞれ3条の人口谷を掘り込んでいたそうです。現在では人口谷は
          埋められてしまったようですが、自然谷の方は今なお目もくらむような、深く切り立った
          天然の堀となっています。南側の谷を渡った帯曲輪跡は、今では動物園や遊園地と
          なっています。
           さて、佐久平および上田平は蕎麦と胡桃で知られ、甘い胡桃だれにつけて食べる
          胡桃そばが名物です。懐古園の駐車場脇にあるそば屋「草笛」は、この胡桃そばの
          元祖を名乗っています。ここの胡桃だれは、他店と比べてもひとしお濃厚で美味だと
          感じました。懐古園とセットで楽しまれると良いと思います。

           
 三の門。
大手門。 
 二の門跡の桝形。
二の丸の石垣。 
 二の丸から南の丸、北の丸方面を望む。
北の丸跡。 
 南の丸の石垣。
 本丸の堀切。 
 本丸黒門跡。
本丸の荒神井戸。 
 本丸の石垣。奥に見えるのは天守台。
本丸北西隅の水の手不明御門跡。 
 本丸西端の堀。
 主城域南側の谷。 


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