殿様屋敷(とのさま)
付小野路関谷(おのじせきや)
 別称  : 殿持屋敷
 分類  : 平山城
 築城者: 不明
 遺構  : なし
 交通  : 小田急多摩線・京王相模原線多摩センター駅よりバス
       「多摩車庫前」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           町田市No.254号遺跡「殿様屋敷」として登録されている。周辺には土橋の字が残るが、
          包蔵地のまま開発されたため、遺構の有無は不明である。
           『日本城郭大系』には、土地の口伝を基にした「殿持屋敷」の項がある。すぐ西側の下を
          旧鎌倉街道が南北に走っているとする記述から、殿様屋敷と同じものを指しているようにも
          思われる。ただし、『大系』では殿持屋敷の所在地を町田市小野路町と多摩市瓜生に跨る
          あたりとしている。瓜生は、現在の多摩市永山の現鎌倉街道(都道18号線)沿いの地域を
          指す。これにしたがえば、殿持屋敷は卸売市場の南側付近にあったことになる。
           上の地図の緑点のところに、古道に関する説明標柱が建っている。それによれば、標柱
          付近に古道の五差路があり、近くには関所跡と思われる堀切の跡があったとされる(現在
          消失)。この堀切が殿持屋敷跡に相当するものとも考えられるが、詳細は不明である。
           また、殿様屋敷の南700mほどのところに旧小野路宿があり、その背後の小字関谷の
          切通し脇に、郷土史家の宮田太郎氏が「新しい中世の城跡を発見した」と盛んに喧伝して
          いる「小野路関谷城」なるものがある。今のところ一個人の見解に過ぎず、小野路関谷城
          の名称についても宮田氏個人による呼称である。


       <手記>
           殿様屋敷と呼ばれる丘は、東西に伸びる横山丘陵の尾根筋のピークの1つで、現在は
          南側斜面が墓苑に、北側半分が駐車場開発によって削り取られています。残った部分も
          ほぼ自然地形で、城館跡の遺構らしきものは見受けられません。
           殿様屋敷の西麓には、上述のとおり旧鎌倉街道が南北に走り、屋敷の眼前で峠を越え
          ます。したがって、殿様屋敷は幹線街道掌握の要衝に位置していることになり、『大系』の
          指摘するとおり誰かの屋敷というより、砦や関所の役割をもったものであったと考えるのが
          妥当と思われます。
           さて、宮田氏が声高に唱える「小野路関谷城」ですが、私は地図上で見てもここに中世
          城館が存在した可能性は低いだろうと思っていました。そして、実際に訪れてみてそれは
          確信に変わりました。
           その理由は、まず第一に現地の遺構の有無です。「小野路関谷城」は「関屋の切通し」
          を北端として、その南側の尾根筋にあったと説かれています。しかし、かなり奥まで行って
          も、なだらかな斜面は続いているものの人工的に均されているような箇所はほとんどなく、
          まして曲輪として機能的に削平されているようなところは見受けられませんでした。唯一
          明らかに人の手で平らにされていると思われる場所がありましたが、そこは尾根に三方を
          囲まれた袋になっているところで、曲輪というよりは耕地であった可能性が高いと思われ
          ます。宮田氏によれば2条の堀切があるとのことで、一応切通しから登ってまもなくのところ
          に連続した小鞍部があり、これを指しているものと思われます。ただ、これを2条堀切とする
          と、切通しとの間がかなり狭くなり、切通し対岸の北側や南側のより高い尾根筋から挟撃
          されると袋の鼠となってしまいます。しかも先の削平地はこの鞍部の外側にあるため、城と
          してみた場合構造的に不自然です。2つの鞍部は、どちらも両側麓まで続いているようで、
          どちらかというと切通しができる前の古道か脇道と考えた方が相応しいように思われます。
          さらに上ると、宿側が土塁状になっている箇所があります。城館遺構とも思えるのですが、
          周囲が曲輪形成されているようすもなく、なにより土塁の手前は堀底道となっているので、
          これも旧道とみた方がよさそうです。
           第二に、地勢的にみてもここに「城」が設けられる蓋然性は低いと考えられます。小野路
          関谷城の比定地は、今でこそ北端が深い切通しなので峰の先端のようになっていますが、
          もとはあまり高低差のない尾根の鞍部です。前述のとおり切通し対岸の北側の方が高い
          ので、こちらから攻められたらなす術もなく城内に侵入されてしまいます。鞍部ですので、
          南側から攻められた場合も同様です。したがって、ここに籠って戦う施設を造るのは合理的
          とはいえません。
           また宮田氏が監修を務めたとされる「多摩よこやまの道」の案内板には、決まって小野路
          関谷城とそのすぐ脇を走る旧鎌倉街道が書き込まれています。一見すると、旧鎌倉街道を
          扼する要衝の城のように感じられますが、実際の街道は関谷の1つ西側の尾根ないし谷を
          通っていたと推定されており、宮田氏が意図的にずらしたものと考えざるをえません。
           そもそも、鞍部をわざわざ切通して道を通すということは、その理由はショートカットか街道
          封鎖にあると考えるのがセオリーでしょう。関谷(関屋)というくらいですから、これらの目的
          に則した関所が設けられていたであろうことは想像に難くありません。「関所も城跡だ!」と
          断言されてしまうとそれ以上何も言えなくなってしまいますが、少なくとも城跡を中心に見て
          回っている者から言わせていただくと、ここは城跡ではなく、あったとしても切通しにともなう
          封鎖施設であったであろうと推測されます。
           付属の小野路関谷の方が文量が多くなってしまいましたが、「ある」というものを「ない」と
          否定するのはそれだけ説明の必要な作業であるものとして、ご容赦ください。

           
 殿様屋敷周辺現況。
殿様屋敷の丘頂部のようす。 
左手(北斜面)は駐車場によってガッツリ削られています。 
 古道五差路跡の説明標柱。
 殿持屋敷跡比定地か。
小野路関谷の丘を望む。 
 関屋(関谷)の切通し。
城跡と叫ばれるあたりのようす。 
 片側が土塁状となった堀底道。
 旧道か。
おまけ@:小野路宿のようす。 
 おまけA:多摩よこやまの道展望台からの眺望。
 中央のビルは今が旬のベネッセ東京ビル。 


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