虎岩城(とらいわ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 虎岩氏
 遺構  : 不詳
 交通  : JR飯田線飯田駅から車で15分


       <沿革>
           神之峰城主知久氏の一族・虎岩氏の居城とされる。『上伊那郡史』によれば、虎岩氏は
          知久氏庶流・小林氏の後裔とされるが、系譜は定かでない。花岡康隆「室町~戦国期に
          おける信濃知久氏についての基礎的考察」(『十六世紀史論叢 第12号』)によれば、文正
          元年(1466)に虎岩郷の「治部少輔満位」の名が見られるのが、虎岩氏の初出とされる。
          文明年間(1469~87)には虎岩頼経が活動しており、同書では満位の子と推測している。
           天文二十三年(1554)に武田晴信(信玄)が本家の知久氏を攻め滅ぼすと、虎岩玄蕃允
          頼次は「自害し家名を失」って、「居館も亡滅し」たとされる(『上伊那郡史』)。これにより、
          虎岩城も廃されたとみられるが、翌年に処刑された知久頼元の子頼氏は元亀元年(1570)
          に赦されて武田氏に仕えている。
           天正十年(1582)に武田氏が滅亡すると、頼氏は同年の天正壬午の乱を経て徳川家康
          に仕えたが、同十二年(1584)に自害を命じられた。虎岩頼次の子・頼貞は、頼氏に代わり
          伊那の統治に派遣された菅沼大膳定利に仕え、同十八年(1590)に家康が関東へ移封と
          なると、これに随従したとされる。したがって、遅くともこのときまでに虎岩城は廃城となった
          と推測される。ちなみに、頼氏の子・則直が関ヶ原の戦い後に交代寄合として旧領に復帰
          すると、頼貞もその下に復した。


       <手記>
           天竜川左岸の段丘と、支脈の谷川が形成する舌状地形に築かれていた城館です。現況
          は民家の敷地で、あまり中をジロジロ覗くわけにもいかず、説明板や石碑などもないので、
          周囲を窺うのみに留めました。西側斜面を見上げると、切岸の雰囲気はありますが、遺構
          の有無についても不明です。

           
 虎岩城跡を見上げる。
城跡付近からの眺望。 


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