藪原砦(やぶはら) | |
別称 : 鳥居峠砦 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 武田晴信か | |
遺構 : 削平地、土塁、堀跡 | |
交通 : JR中央本線藪原駅徒歩60分 | |
<沿革> 天文二十四年(1555)三月、武田晴信(後の信玄)が木曽谷への侵攻を始め、先遣隊を 藪原まで進軍させた。しかし、同年四月に越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が信州へ出陣 したとの報を受け、晴信は藪原に栗原左兵衛・多田淡路守満頼(昌澄)らを守将として残し、 北信へ向かった。藪原砦はこのときに築かれたとみられている。 木曽谷領主木曽義康・義昌父子は、何度か藪原砦および鳥居峠奪回の兵を向けたが、 攻め落とすことはできなかったとされる。同年中に再び晴信が本隊を率いて来ると、木曽氏 はまもなく降伏した。 その後の藪原砦については不明である。天正十年(1582)には、織田氏に寝返った義昌 が、鳥居峠で武田勝頼軍を破っているが(鳥居峠の戦い)、この戦いに藪原砦が関わって いるのかは定かでない。 <手記> 藪原砦は、木曽谷の入口である鳥居峠の峠山の西方に延びる峰を利用して築かれた城 です。御嶽信仰に基づく御嶽遥拝所(御嶽神社)一帯が主郭とされ、以下中山道に沿って 計3つの曲輪が別々に分かれて構えられています。 主郭の御嶽遥拝所の背後には、明らかに城の遺構とみられる一段下の腰曲輪と土塁が あります。私の見た限り、藪原砦でもっとも良好に残っている遺構といえます。その他は、 神社境内ですので、遺構なのかどうかは判断ができません。主郭の西側中腹には「義仲 硯水」と呼ばれる古井戸跡があり、『日本城郭大系』では、城の水の手であろうと推測して います。 遥拝所の下の丸山公園と呼ばれる小丘が2番目の曲輪とされ、ここには鳥居峠の戦いの 古戦場碑があります。丸山公園の峠側の付け根は堀切跡とされ、現地説明でも「堀割状の 地形」として紹介されています。ただ、すぐ脇の林道と接続して車が通れるようになっている ため、堀切の遺構はだいぶ埋められてしまっているようです。 丸山公園のさらに西にある測候所跡と呼ばれる広場が、第3の曲輪跡とされています。 ここは、測候所があったということで完全な平場になっていますが、城の遺構であるかどうか は判断ができかねます。この測候所跡の曲輪と丸山公園の曲輪は、中山道とは別の尾根 道で繋がっており、この道は土橋状に両サイドが削られています。 測候所跡の曲輪から下って中山道に合流しようとすると、途中に旧道と思われる九十九 折れの堀底道を何度か脇に目にします。これもおそらく、藪原砦に付属してつくられた防御 目的の旧峠道と思われます。 さて、鳥居峠は木曽谷の入口にして最大の天険といえます。しかし、藪原砦そのものは、 峠の木曽谷側に向いています。明らかに木曽谷側からの攻撃に備えるための砦であること が分かります。したがって、この砦は信玄の木曽侵攻における上記の経緯でしか存在価値 がないとさえいえるものであり、木曽氏が武田氏に降伏した時点で、おそらく不要になった ものと推測されます。 |
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主郭とされる御嶽遥拝所。 | |
遥拝所下の腰曲輪。 | |
腰曲輪の土塁。 | |
腰曲輪の外側から土塁越しに御嶽神社を望む。 | |
丸山公園の曲輪跡のようす。 | |
丸山公園の曲輪の付け根付近(堀切跡)のようす。 | |
測候所跡の曲輪跡のようす。 | |
測候所跡の曲輪と丸山公園の曲輪の間の尾根道。 | |
主郭下の義仲硯水。水の手跡か。 | |
測候所跡の曲輪下の九十九折れ堀底道。 | |
堀底道の土塁。 |